見失わないよう確認しようよ
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俺が誰かに失望されるのが怖くて仕方ないのは、きっとそれが「自分が変化した証左」になりうるからだろう。
ただよく考えてみると、「相手が変化した」可能性もあるんですよね。つまり失望には2パターンあって、「お前変わっちまったな。俺が好きだったあの頃のお前はもういない。じゃあな」のパターンと、「お前いつまでたっても同じことしかしてねーじゃん、もう飽きたわ。じゃあな」のパターン。あるいは「お前がそんな奴だったとは思わなかった」みたいなパターンもあるけど、これは失望の根源というより出囃子であって、ここから「『お前』が変化したためそれに気づいた」のか「『お前』ははじめからずっとそうだったが、観測者が遅まきに気づいた」のかに分かれるのでやはり実質2パターン。
俺が恐れているのは前者のみで、後者の場合はむしろ不変の証左になるのでホイミになるというトリッキーな存在なんです。ただ俺には自分に失望して離れていく人間がどちら側なのかがわからない。俺に愛想を尽かして離れていく人は全員帰る前にどっちのパターンだったかだけ開示してから帰って欲しい。そんなことできるはずもないが……。
ちなみに変化が嫌いだと散々言っているが、同時に俺はマンネリも嫌いだ。具体的に言うと朝○みたいに毎度毎度キャラの皮だけをすげ替えてまったく同じことを何度もやっている人とか。一見二律背反のようだが、実はこのふたつは同時に成立しうる。ご説明しよう。
ここに球体があると想像する。これが個々のヒトの心の中にある「人間性のコア」だとする。
そして、この球体のまわりをマリオのジュゲムがカメラを吊り下げて回っている。
このカメラで撮ったものが、その人の顔や声や態度といった「挙動の総体」というテレビ画面に映しだされることで、我々はその人の人間性を知覚している。コアを直接見ることはできない。あくまで彼らの心の中のジュゲムが撮った角度からしか見えないのだ。
俺にとって「駄目な変化」とは、コアの球体自体が別のものに変わってしまうこと。
「マンネリなき無変化」とは、コアはそのままで、カメラがいろいろな角度からそれを見せること。
「マンネリ」とは、コアはそのままで、カメラの角度も一切変えず完全に同一の角度から撮り続けること。
マンネリなき無変化をやれているのが緑のルーペ氏とかrrii氏とかあたり。アプローチの仕方さえ毎回工夫すれば、コアが変わらずともマンネリ感は出ないものなのだ。球体は色に満ちている。少し角度を変えるだけで得られるものは大きく変わる。それでいて「コアそのものは変わっていない」という感覚もきちんと与えられる。音楽理論を知らない素人でも、無意識のうちに好むコード進行やビートを持っていたりするように、我々は「ただ見るだけ」でも球体が同一のものか否かを認識できるのだ。
喰らうべきはデュフォーの憎しみのみ。変わらずあるべきは核のみ。変わらずにいることと怠惰でいることはまったく違う。そこんとこフォーシックスフォーナイン。
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