自立
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先日宗教の話をしたが、私が宗教に対してどのようなスタンスでいるのかというのを現したのがTOKAREVだったのだと気づく。あれさえ完成していればすべて明瞭に伝えられたのに……。めっっちゃいいんすよあれ!!リアの独白シーンが!!新アグリア教の先導者であり革命家として生きてきたリアがニドにだけ零した本音が!!!いいのになぁ~~。やっぱ愛だよ。究極の愛は自己犠牲であり、自己犠牲は究極のエゴイズムである、というフラクタル構造に私は途方もない美を感じています。愛のすべての側面を描いたのがTOKAREVだったのだと思う。こんな「閉じた話」をしていても一番しょうがないんですけどね……。
「究極の愛は自己犠牲であり、自己犠牲は究極のエゴイズム」。これは藤井風的な価値観とともすれば相反し得るが、同時に私にとっては同じくらい大切な価値観です。どちらが欠けてもならない。愛は突き詰めると必ず自己中心的なものになるという事を覚えておかないと、だめな酔い方をしてしまう気がするから。愛に大義が付随することはあっても、愛が愛であるための必須要件ではないし、大義なき愛も全然ありうる。全能性に酔ってはならない。humilityが大事。
人生のゴールとはなにか。「幸福」はもっとも槍玉にあげられるが、私はそのステージはとうに過ぎた。「満足する死」?それも一つの答えだ。否、「人生のゴール」を「死の時にあるべきなにか」とするなら、満足する死、でいいのだと思う。しかし私は最近こういう考え方がよぎっている。人生のゴールとは、「自立」であると。
人は生まれたとき、何もかもを誰かに助けてもらわなければならない。食事も排泄も、睡眠さえもあやしてもらわねば満足に取れぬ。感情も親から教えられる。いないいないばあで笑ったり。正義も悪も、世界から教えられる。数も言葉も、何もかも周りに助けられながら形作られていく。これが「自立」の対極だ。
やがて人は成長し、ひとりでできることが増えていく。大人になり、社会に出て、いろんなことを許される代わりに責任も背負うようになる。これがいわゆる社会性生物としての「自立」だろう。
ところが老齢になってくると、我々は再び周囲の介護を必要とするようになる。満足に歩けなくなり、目も耳も悪くなる。排泄すら覚束なくなり、食事も好きなものは食べられない。やがては「寝たきり」になり、老いて死んでいく。これが身体の終焉であり、このとき我々は「自立」からは程遠い。
では如何にして人生のゴールが「自立」と言えるのか?自立とは身体のことではない。必要なのは精神の自立である。つまり、最後の日、いつかたったひとりになったその時に、自分の内にあるもの以外の何にも縋らずに(精神的に)地に足をつけて立っていられる力のことである。私はそれを「自己愛」と呼ぶ。
つまり、一切が自らに依った自己肯定。誰かに言われたからでも、社会に認められたからでもない、ただ自分が自分であることをそのまま包み込む愛。これを獲得することが「自己愛」の実現であり、また精神的な自立である。
幸福に代わるフレームワークとして、いかがでしょうか。「こんなもの幸福の範疇じゃないか」という意見もありそうだが、自立・自己愛と幸福は似ているようで違う。むろん共存することもできるが、「幸福だが自立していない状態」ということもあるわけです。自立を伴わない幸福は短命だ。ライフゴールにはなり得ない。
自立フレームワークのいいところは、大体の他のフレームワークとの共存性があるということ。正しく「依存性」がないため、幸福ゴール型が今から自立フレームワークを取り入れる事もできるし、幸福の対極のような地獄覇道を進む者でも採択することができる。
問題は、「じゃあその『自立』とやらはどうやって実現するの?」ってことですね。では、次回はいよいよ歪んだ世界で純粋に生きる唯一の方法について書きます。
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