糸
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喪われてしまった音楽を取り戻すには、誰かが継ぐしかないのではないか。ロリィタノイロォゼや幼虫社や6611のクオリアを救いたい。
喪われるっていうのは、「創作者が死亡する」ならまだましで、「創作者が創作への興味を完全に失う」とか「ジャンルが大きく変わって、『過去のクオリア』を創作者自身が再現できない」だと本当に最悪。死亡ケースなら過去にしがみつくことでまだ生き長らえられるけど、後者の場合は「今」そのものがスリップダメージになるからね。ゾンビをこれ以上目に入れたくない。
ずっと悔しいっす。墓守になりてぇ。生き人に興味がなさすぎる。この社会の暗黙の了解として、「死人は忘却されなければならない」というものがある。誰もが「当たり前」のレッテルに押し込んでその残虐性を否定しているが、やっぱりこれはあまりに非道ですよ。どんな人間も死ねば次第に言及されなくなる。ゆっくりとOblivionに押しやられていく。誰も止めることができない。生者は生者を持て囃し、死者に対しては「幽霊」などの概念を生み出して忌み続けてきた。それが社会を回すためのルールだから。生者が死者をいつまでも弔っていたのでは発展出来ない。だから何なんだ。誰が消えても見て見ぬ振りで回り続ける世界に心底辟易している。けっきょくすべては功利主義のために「死者の忘却」を肯定しているんだろ。いつまでも死んだ人にこだわってはいけない、とか、そんなことをしても死んだ人は喜ばない、とか、前を見て進まなければいけない、とか、たまに思い出すだけでも十分だ、とか、肝心の死者たちは何一つ口をきけないのに。非道だ。とにかく、非道過ぎる。ずっと悲しい。きれいごとでも理想論でも、理想も語れなきゃ終わりだ。
資本主義国家の終焉だろうよ。←ハッピーエンド なぜみんなこうも盲信的に資本主義を肯定しているのか、生まれてきてからずっと疑問。ずっと不気味。完全に強めの宗教でしかないんだけど、誰も指摘しない。国家ぐるみのエコーチャンバー。 百歩譲って資本主義が現状取りうる社会形態の中でもっともましだったとしても、それは「消去法」で選ばれた「ごみ山の中のましなごみ」でしかなくて、どう考えても賛美するようなものじゃない。 欧米では基本的に競争を肯定する「資本主義」の行き過ぎの歯止めとしてキリスト教の倫理や精神が社会への還元効果として作用したが、日本はそうしたものなしに競争原理だけを取り入れたから地獄になったらしい。やっぱ日本のobscure religionが害悪すぎる。自分が何かを信仰していることすら分かっていない狂信者って、無敵かよ。「信仰」は究極的に言えば虚構を前提とした祈りなので、それに無自覚であれば信仰のことを「ただ事実を事実として知っているだけ」と感じるんだろうな。 皆さん本当に競争原理分かってます?「個人や集団に必要とする資源が限定されているならば、それを獲得するために競争を行って優位(高生産性)の者がそれを獲得できる、とする考え方」ですよ。そんなものを、本当に支持してるんですか。本当にそれが人間にとって理想の形態と思ってるんですか。人間の「優位」ってなんですか。植松は正しかったですか。 どんな理由があろうと、「競争」なんて仕組みを全肯定する主義なんて、「弱者を切り捨ててもいい」主義なんて、俺は死んでもごめんだ。ガッシュベルもそう言うだろうよ。人間が争い、競い合うことのどこが理想的なんだ。誰が幸福になるんだ。争いを止めろ。お金儲けてて嫌われたりするの怖くないですか?って言われてもお前犯罪とかせずにお金儲けてる人が無条件で嫌われだしたら資本主義国家の終焉だろうよ。— やしろあずき (@yashi09) October 19, 2019
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