童謡入門編
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今まで悪かった。どう考えてももっと早くこの記事を書くべきでしたね。童謡が好きだ好きだと言いながらそれを布教することを怠ってきたのかもしれない。というわけで、今回は童謡というものが如何に優れたるものかを衆愚どもに教えていきたいと思います。ただマジで語りだすと50万字とか冗談抜きで行きそうなんで、できるだけセーブする。
最初に言っておくと、僕の中の「童謡」の定義は一般に使われているそれよりもかなり広義的です。とは言っても、辞書通りといえば辞書通り。どっちかというと普段みんなが使ってる「童謡」が狭義的と言ったほうが正しい。辞書によれば:
童謡【どうよう】
1.童心を表現した、子供のための歌や詩。
2.民間に伝えられてきた、子供のうたう歌。わらべうた。
僕の定義もこれ。「子供のための歌や詩」という節がかなり重要。要するに、「子供が聴くこと」を前提にし、「子供が楽しめる」ことを第一に考えた音楽なんです。この「子供」っていうのは中高生では断じて無くて、小学校低学年がギリギリライン漏れするかしないかくらいの、かなりの低年齢層(幼児~幼稚園児)をさす。つまり発達に寄り添っていく、ある意味では原初的な音楽である必要があるのです。また、当然一切の悪意がそこにあってはならない。この辺さえ満たしていれば、別に昔から伝わっていたりする必要性はない。(これは1の定義の話)
二番目の定義はわらべうたとしての、いわゆる皆の知ってるところの『童謡』。別に1つ目の定義と明確な境界はないけど、ちょっと狭義的。
皆さんに最も知っておいて欲しい重要なことは「童謡は新生できる」ということ。別に古くさい必要性はないし、やりたければBPM180とか出してもいいんです、「子供のための歌や詩」であれば。たとえば我が尊敬する詩人(他称)、谷川俊太郎氏曰く:
詩を書いているだけでは生活できないと思って、同世代の芸大生の友人と語らって子どものための歌の作詞を初めたのは、20代初めのころのことでした。昔からのいわゆる「童謡」に飽き足らなくて、私たちは自分が創った歌を「新しい子どもの歌」と称していました。この集に収められた歌も、昔の「童謡」とはずいぶん違ったものになっていると思います。[1]
ちなみにこの文言の題目が「詩が歌になるとき」で、このふたつの重要性を示唆している。
これで童謡の定義はおおよそ明確にできたと思う。では童謡は具体的に何がすぐれているのか?ハッキリ言って「童謡を聴いて悟る者なら語る必要はない、童謡を聴いて悟らぬ者なら語るに値しない」とチャンピオンマント理論を投げつけてしまいたいところですが、以前のアンケートを見るにどうも皆さんそもそも童謡をあんまり聴けてないようなので、論より証拠ということで具体的にこの辺のCDがおすすめというのを書いていきます。
・夢で逢いましょう/村上ゆき
童謡はその性質上、どうしても歌姫の力が大切になってくるんだけど、現状僕が考えられる最高の「童謡の歌姫」はこの人。完璧です。声色を聴けばわかる、彼女こそは童謡の母なり。一切の邪悪がない、この世の愛だけを取り出したようなマリア。ちょっと話が逸れますけど、コトリンゴのボーカルに近い色を感じた人もいるかも知れませんが実は決定的に違う。なんなら真逆。コトリンゴは言っちゃ悪いけど声の感触としてはかなり邪悪寄り。適性がない。僅かな周波数の差でこのふたりは決定的な差がついている。
・深川和美の童謡サロンシリーズ
少し癖のある声色の人なんですが、ハマれば強い。特にやや壮麗な曲に関しては他の追随を許さない。このシリーズではないけど、彼女の「星めぐりの歌」のカバーは僕の中ではこの世のすべての音楽のなかで最も聖い。「湖上」も笑っちゃうくらい美しいです。
・谷川俊太郎 ソング・ブック・・・6人の歌姫が詩をうたう
僕のスタート地点。暴露すると、もともと闇の眷属として電子の海を徘徊していた時にアンチクショウの「よるのようちえん」のカバーを見つけたのがきっかけだったんですよね。もちろんそれ以前から童謡は好きだったんだけど、本格的に入れ込んでいった(=谷川俊太郎と谷川賢作に出会った)のはここから。洗練された「子供のための歌」が揃っているので聴いて欲しい。聴け。
・さだまさしが歌う唱歌・童謡集
ストレートな童謡集だが、これがもう凄まじい。村上ゆきがマリアならさだまさしはキリストか?男性の声にしか出せない、特有のやさしさを、ぬくもりを、完璧に出せています。邪悪なんて欠片もない、憂いもなにもない時間を過ごしたいなら金より女よりストロングゼロより此れを聴いた方が絶対に良い。特に「ペチカ」がきれいです。
・Divaのアルバム全般
買え。買えば分かる。わからなければ終わり。死刑。
後は、動画。ポップに脳内を汚染された君たちに響きそうなのはこれ。
正直、このグループに関しての詳細が僕にもわからなかったのでなんとも言えないんですが、鳴らす音楽は完璧。これぞ「新生童謡」のあるべき姿、といった音像を徹頭徹尾貫いている。何者なんでしょう。分からんけどこれを聴けば誰もがわかると思う、童謡の持つ癒しの波動を、灯りを、光を、希望を、体温を、木漏れ日を、揺り籠を、大切なことを。
ココらへんまで聴いてくれた人なら分かると思いますが、童謡はそれにしか出せない固有の波動を持っている。他のどんな音楽にも出せない。さらにすさまじいのが、これは「日本固有」のものなんです。これはポップ音楽ではどうあっても洋楽に勝てない我々としてはもはや一筋の希望なのではないだろうか。別に俺が日本生まれだからとかいう訳じゃなくて、いやもちろんそれもあるんだけど色眼鏡のせいではなく、騎馬民族と農耕民族の遺伝子に組み込まれたリズム感の違いが作用している。詳しい説明はグーグル先生に任せますが、海外にももちろん童謡はあるけど、聴いてみれば分かるがそれは日本の童謡とは完全に別物で、「農耕民族」のDNAが生み出せるあの「童謡」は日本にしかない。日本人しか作れない、といったほうがいいか。ややレイシスってきたかも知れませんが、別に良い悪いの話じゃなくて適材適所の話をしているので。事実ポップ界では全然勝ててない時点でむしろ負け。ともかく、日本の童謡は他の国もしくは自国のあらゆる音楽とも一線を画する、完全に一意の存在であるのです。
はっきりいって、「ノる」ことを考えれば退屈なんだと思う。リズムが平坦でBPMも遅く、音もみんな大好きなドンシャリとは真逆を行っている。ただそれが多幸感を失うということにはならず、むしろ人の命に寄り添える、人間が心の奥底で本質的に最も求めている存在に限りなく近いのが童謡なんです。我々が普段抱く望み、辿っていくとそれは他者もしくは超越的存在からの「慈愛」にほかならない。我々はみな「慈愛」を求めて人生の航海を旅しているのだ。それを与えるのが「童謡」です。つまり童謡は、親の愛を知る子供にはがらがらとして、子を愛する幸せを知った大人にはしずかなる幻灯機として、どちらも失ってしまった大人には冬の日の太陽として、姿を変え遍在できるのだ。別に「子供のための歌」という定義は崩れませんよ。むしろそれを徹底して追求することが結果的に「大人のための歌」にもなるのです。「ポケットにファンタジー」を考えれば一番わかり易いと思う。けっきょく我々はみな子どもで、大人になることを強制されたに過ぎない。否、今も「され続けている」のだ。「子供のための歌」とは、子供に寄り添うとともに、「大人」としての我々ではなく「一人の尊い人間」としての、やわらかい生命としての我々を視てくれる存在でもあるのです。童心を表現した、子供のための歌や詩。さぁ、今日から君たちも童謡マスターだ。
[1]……「俊太郎と賢作が贈るハッピーソングブック げんきにでてこい」 より引用『マザーグース』のようないわゆるnusery rhymesに当たるのは、日本では<わらべうた>でしょうが、今ではほとんどうたわれなくなっています。時代にそぐわない<わらべうた>に代わる、いつまでも<新しい子どもの歌>を、これからも創り続けたいと思っています。[1]
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