承認欲求をブチ殺す方法
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承認欲求とか自己顕示欲というものは芸術に携わる人間にとって非常に密接に関わってくる問題だ。
むしろ、「芸術」というジャンルはこれらと如何に上手く付き合うかという存在と言っても良いかもしれない。
そう、付き合い方だ。どう扱うべきかは各位の目的によって変わってくる。
個人的には、承認欲求丸出しだろうが本人がよいならよいのかなぁとは思う。
その場合その人は強制的に商人となるが。商人と表現者については以前書いたのでそちらを読んで欲しい。
今回は承認欲求をブチ殺す方法だ。基本的には絵を描いたり音楽を作ったり、芸術に携わる人向けの話。特に「表現者」側の人間に向けて。
「殺す方法」であって「満たす方法」ではないので、満たす方法が知りたい人は帰って下さい。個人的には、絵なら人のオリジナルキャラ、音楽なら他人のオリジナル曲のアレンジなどを無限に作り続ければ生みの親から無限に絶賛され続けるので、その駄サイクルで満たすのが一番てっとり早いと思う。(なんか攻撃的になってしまったが、これは皮肉なしに全然アリだと思う。駄サイクルはある種承認欲求に対する完全なる解答だ。僕の専門外の人種ではあるが)
先に言っておくが、承認欲求を支配しようが殺せようがあるいは支配されようが、あなたの幸福度には全く影響しない。虚しさは残ったままだ。それはあなたの幸福平熱が周りの人より低いため、どれだけ幸福になろうと足掻いてもしばらくすればいつも通りの満たされなさが襲ってくる。あなたはいつもそうだった。どうしようもない。呪うなら遺伝子を呪うが良い。(ちなみに虚しさを抱えていないひとはこの記事の対象者ではないので帰ってください)
幾つかの注意事項。まずひとつ目、ついさっき言ったことと若干内容が被るが、「承認欲求を殺す」というのは決して健全なことではないという事。あなたはひょっとすると承認欲求を負の感情として捉え、こいつさえブチ殺せば心には清涼なる風が吹き抜け木々は笑い一切の苦から解放され自由に作品を作れるようになると思っているかも知れないが、絶対に不可能です。そうなりたいならむしろ芸術をブチ殺して髪型を整えコミュニケーション能力を鍛えラブに酔うしかない。酔えばハズレ遺伝子でも多少幸福になれるだろう。そもそも芸術そのものが幸福の対義語のようなものなので、心を清涼にしたいなら芸術そのものを殺したほうが早い。承認欲求殺しの目的は「自身を楽にするため」ではなく「作品と作者の乖離」にある。
二つ目。作品を作る者たちにとって「作品を公開する」というのはどうしても必要なステップであるということ。僕の定義ではこれは「承認欲求」に該当しない。承認欲求に該当しだすのは、それが良いものであれ悪いものであれ「反応が欲しい」と思うあたりがライン。つまり「褒められたい」は無論のこと、「批評でもいいからコメントが欲しい」とかも承認欲求だろう。作品の公開を承認欲求としてしまうと我々は一生作品をどこにも公開せずただ一人で消費し続けるだけになる。問題なのはそれに納得いくかいかないかではない。「俺は誰にも見せずとも楽しめる」という人もいるだろうし、どちらかというと僕もこっちよりなのだが、そんなことはどうでもよい。問題なのは作品を公開しないと己の死と共に作品を殺してしまう事。
人は死ぬとその死体が腐り出し、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲み、その死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされ、やがて土に還ってゆく。そしてその土の上を人が歩いたり家が建ったり花が咲いたりするわけだ。ところが作品が死ぬとそれすら許されない。ただ、無かったものとなる。これがよくない。そもそも芸術作品というのは作者が死んでも人々が語り継いでゆくから「死」を迎えずにいられるものなのだ。作者自身が殺そうとしない限りは。作品に命を与えるため、作品を公開するという段階はどうしても必要だ。皆も「この作品に出会えただけで生まれてきた価値があった」と思えるほどの作品がひとつくらいあるだろう。もし作者がそれを封じ込めていたらと思うと苦しいだろう。そういうことだ。うんち!
さて殺し方です。
承認欲求を殺したいということはコイツに苦しんでいるということだろう。
認められたい、愛されたいと思う人は現代社会では本当に若干引くくらいありふれている。ストレス社会の皺寄せだろう。
とにかく皆いつも否定されてばかりで承認に飢えている。その実否定されないために先に相手を否定しようと攻撃的になる人も多く、ありもしない敵意への牽制が蔓延り良い具合に地獄となっている。話が若干反れましたね。殺し方の話です。
「作品を公開する」という前提で承認欲求を殺す方法。
承認欲求に苦しむ時とはどんな時だろう。例えば、あなたはある日渾身の作品ができたと思った。喜び勇んでそれを公開する。しかし、それにはあなたが予想していたほどの評価は付かなかった。あなたは酷く落ち込む。作品を公開するのが怖くなる。ふと周りを見ると賞賛されているアーティストたちを見つける。あなたはそれを羨む。自分ももっと技術力が欲しいと思うようになる。次の日から己の芸術ジャンルの勉強を始めるが、3日と持たず気力は尽きる。けっきょく才能がすべてと愚痴り、どこか芸術に対して攻撃的になる。旬のジャンルに飛びつく奴らを蔑んだり、他人の褌で金を稼ぐ輩を憎む。やがてあなたは自分がなぜ作品を作っているのかわからなくなる。こんな自分の作品などあってもなくても同じだと思うようになる。そして作品の評価と自分への愛を混合しだす。やがて愛と価値を混合しだす。あなたは耐え難き空白に押し潰される。以上です。
僕にとって「承認欲求を殺す」というのは、「周りの評価に一切影響されなくなる」事だ。周りがどんな評価をしてこようがただ淡々と自分の作りたいものを作り続ける事。たとえばあるアニメの絵を描いたら凄まじく評価されたのでそればかり描くようになるとか、あるオリジナル曲が割と伸びたのでそれに似せた曲ばかり作ってしまうとか、渾身の作品が思ったより伸びずモチベーションが失せてしまうとか(流用)。こういうものを無くす方法。きわめて簡単です。評価を受け付けなければよい。
たとえばpixivなら、絵を上げるじゃないですか。点数やらブクマがつくわけですが、それを一切見ない。これだけです。僕は2年前くらいから実践している。マイページみたいな所を開かなければ作品の評価は見られないので、開かなければよい話なのだ。SoundCloudでも同じで、自分のページを開かなければよい。評価は流れてこない。メール通知は専用のメールアドレスを作れば見ずに済む。Twitterは少々難しい。通知を一切切ってもベルのマークでポップアップが来る。正直どの芸術ジャンルでもTwitterに作品を上げる必要性はないと思うので、上げないのが一番だと思います。
最初のうちはどんな評価がついているか気になるかもしれないが、本当に一切の無視を決め込んでいればいずれどうでもよくなってくる。これは芸術に限らないが、人間の脳は「目に見えないものは存在していないものと同じ」という解釈をする。だから近くの人のちょっとした不幸には共感しても、アフリカで餓死する子どもたちには心からは同情できない。見えなくしてしまえば存在していないのと同じ。「評価されない」ではなく「評価が来ない」状態、0ではなくnullなのであなたは一切落ち込まずに済む。あなたは周りに流されず好きなように作品を作り続けられる。ただし、代償としてあなたの芸術の実力は一切不定となる。商人なら致命的だが、表現者にとってはどうでも良い要素なので構わないと思うが。あ、芸術で食っていく予定のひとは承認欲求を殺してはだめです。これだけがあなたの推進力となる。表現者とは、技術力やセンスがずば抜けているのに本性が社会不適合を起こすため商人に回れなかった人々のことを指す。ココらへんは前に話したのでその記事を見て欲しい。技術力やセンスがずば抜けていないが社会不適合者の人たちは、まず商人にはなれないので今から技術力とセンスをブチ上げて表現者としてやっていくしかない。
ちなみに、この「見ないふり療法」を長く続けていくと何が起こるかは僕にもわからない。僕は現在「元来自己顕示欲の強い人間がそれを封じ込めようとしたらどうなるのか?」という実験をしている最中なので、僕がこの先どうなるかで判断して欲しい。個人的には…死ぬと思います。
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