徒手空拳
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嫉妬の化身aka藍ですが、Ado氏にはなぜか妬み嫉みの感情が起こらない。というより深く同情してしまう。心根の優しさというか侘しさが見えるからだろうか。彼女を妬んでるやつ、自分が彼女と入れ替わった姿を想像したことがあるのだろうか。絶対しんどいぜ。俺なら無理だね……絶対今の仕事してるほうが楽。操り人形だとか大人の奴隷なんて多分本人が一番わかってる。それを皆の幸福のために自分の意志で受け容れたナナリーみたいな心の持ち主だと思う。恩寵はAdoを応援しています。別に曲は聴かないけど……。誰か彼女にバラードを送ってやってほしい。その声の本気のバラードを聴きたい。
芸術におけるエログロというのはアスリートにとってのドーピングみたいなものじゃないだろうか。常人が天才を超える狂気を手に入れるための唯一の手段だと思う。あるいは天才が鬼才になるための力。マギア・エレベアだよ。じゃあ元から鬼才の人間がそれに手を染めるとどうなるかというと、Hr555みたいなのが生まれます。まだ足りない、まだ足りない、を繰り返した結果、本来底がないはずの空想表現の”底”を見た唯一の人間それが彼。文章媒体なら博学さと底なしの狂疾に裏打ちされた山田マゾ太郎じゃないかと思うが、まだ底はあるかも知れない。いずれにせよ辿り着けない。あそこまで行かないと駄目だとぼんやり思う。
匿名ラジオ/# 212「心配性なARuFaを、恐山のような『豪快な男』にしよう!」を聞くとやはり「選ばれなかった方の恐山」のことを考えてしまう。恐山が今恐山としてあれているのは本当に奇跡みたいなもので、地球が生命の棲める星になったことと同じくらいのまさしく2ミリの隙間の産物だと思う。ということは当然この世にはARuFaに出会えなかった、BHBに入れなかったダ・ヴィンチ・恐山がどこかにいるわけで、そういう存在の末路がこの前の連続刺傷事件の犯人みたいな存在なんだとしたらちょっともうどうしようもないよな世界。このへん聴くと特にそう思う。ARuFaに出会えなかったダ・ヴィンチ・恐山、ディーニュの司教に出会えなかったジャン・バルジャン、ココに出会えなかったシェリー、ただ「出会えなかった」というだけでこうまで運命とかは変わるものなのか。この世のすべての落伍者とは、そういう「選ばれなかった未来」の側の人間たちではないのか。 あなたには……負ける者の 悲しみなどわからないのよッ!!ストレイボウ……もう何も苦しむことはないわ……。
どうして俺はFLCLにノリきれなかったのか考えてみたんだけど、あのアニメで一番最初に目に映るキャラクターがナオ太とマミ美であったからだと思う。観衆っていうのは作品を視聴するとき、雛鳥の刷り込みのように「最初に現れた登場人物」に最も共感しやすい習性があると思っていて、というのは最初に出てきた以上そいつが主人公(もしくはヒロイン)だろうという予測が働くからなんですが、それでいくとFLCLは最初に「主人公=ナオ太、ヒロイン=マミ美」という定義づけをしてしまったんですね。実際にはそれはまったく違う、という認知ずれが最後まで俺の中で齟齬を起こしていたのだと思う。始点と終点があっていない。少なくとも最初の時点での描写はそのような想起を誘発させるように描かれていたんだから、それをもう少し丁寧に解きほぐすべきだったと思う。「マミ美だって、俺のこと好きなんだろ」はもっと早くやるべきだった。
トカレフを創るとき、「面白い物語」のことばかりを考えて「面白いゲーム」のことを考えていなかったかも知れない。そもそもゲームをもはやあんまり愛していないし厳しい。面白いゲームってなんだ?KONSAIRI2になる気がしてきたよ。あれ操作性悪いとか散々言われてるけどプラットフォームの性質で十字キーとメニューボタンとあとボタン2つしか使えなかったらしいししょうがないんじゃねえのと思う。視認性も色数制限があるしさあ。
とりあえず最近わかったのは、細かい視覚的快楽が思ったより重要だという点。ひとつの操作にもちょっとしたエフェクトが出るとか、何も操作していなくてもなにか動くものがあるとか。そういうのはいくら重ねてもゲームを(あまり)煩雑にしないし、足せば足すだけ快楽ポイントになるっぽい。ただよぉ……こっちGBだぜ……?エフェクトにも限度があるぜよ。参考にしようと思って天国の塔のプレイ動画を見たら、俺がエンディングでやろうと思っていた仕掛けをすでにやられていてグワーとなった。これ今からやってもパクリって言われるやつ?言うてそんなに珍しくもないのかな……カラー化なんて。ていうかあのゲームBGMがメチャクチャ良いって持て囃されてるけど、そうかなぁと思う。いや、曲は間違いなくメチャクチャ良いのよ?ただ「BGMとしてゲームの場面に合っているのか」って言われると微妙じゃない?良すぎて逆にBGMが主役になってしまっているというか、本来ゲームの引き立て役としてのバック・グラウンド・ミュージックであるはずがゲームを舞台裏に押しのけて自分が手前に行ってしまってるやないかって思うんですけどどうなんですかそのへん。お前ら割と場面に合うかとか気にしてないの?デトロイトビカムヒューマンで最も自然に物語に馴染んでいるマーカス編の劇伴の評価が一番低いのと同じ?
今までも何度か言ったけど、俺は普通の音楽とゲームのBGMって根本的に異なる性質のものだと思っていて、音楽は音楽が主役なんだけどBGMってあくまで黒子なのよ。ゲームの邪魔をしてはいけないの。ゲームそのものの魅力を最大限引き出すためにそこにあるものであって、そいつがゲームを超えてはいけない。状況を見て力を「セーブ」しなければいけないという点で、常に最大値を考える一般ムジクとは決定的にお門が違う。その点で多分OFFとかゆめにっきとかは完璧だったんだと思う。ゆめにっき中にMegalovaniaとか流れてきたら厭でしょ。シチュエーションが大事なんすよ。
これはじめて見た。オール応接間さんってこういうちょっと潜んだところだと割と中身らしきものが出てくる気がする。意外とストライクゾーン狭いんすね。今回ばかりはほぼ全面的にピッピモンゲに同意だった。アルファと性癖不一致すぎる。俺なんて百合以外オールオッケーなのに。百合が嫌いっていうより、自称百合描きの9割はフェイク野郎なのが嫌。lainくらいちゃんとやってるもののみ赦す。にしても30近いのに週10ってすげえな。体力の化身かよ。
しかし確かにOnanieという言葉が刺激的すぎるというのは分かる。もうちょっと手近な言葉はないのか。「自家発電」あたりが一番湾曲な言い方だと思うけど、ちょっと遠すぎる気もするのよね。普通に電気を消費する者が、自分で消費することを目的に、自ら発電装置(非常に小規模な発電所)を備えて発電しているのかもしれないし。というわけで俺がここで決めます、パブリックな場でも言いやすい最強の呼び方。――「セルフプレジャー」です。医学用語でOnanieと同義。パッと聞きで全然わからんが一意の意味なので自家発電みたいな曖昧さ回避は不要。しかしこういうブログみたいなややアングラに寄ってもいい場所なら「自涜(じとく)」が最強だと思うね。自涜のカッコよさヤバイだろ。自らを涜するんですよ。それが自らを慰めるのと同義というのもまた面白い。
自涜の話しようかな。あんまり下世話な話は苦手なんですけど。これ言ったことあったっけ、私もう三十になりますけど、自涜をしたことがありません。ジーザスコネクション切れてないのよ。夢精しかしたことがない。これすごくない?そんな人間います?いや、正確には自涜に近いことをやることはあるけど、フィニッシュに至らない。至らせない。寸止め海峡とかいう話でもなくて、至る可能性が見えるラインにすら行かない。なぜなら怖いから。ejaculationという現象怖すぎる。俺は意識のあるうちにそれを経験したことがないため、他の人間が到達している姿しか知らないんですが、みんなあの瞬間獣になっている気がする。叫んだり痙攣したり、完全に自我を失っているだろ。虎になりたくないのでそこに至れません僕は。多分今後も至らない。酒も絶対に飲まないし、全体的に意志の操縦権を他に委ねる行為を避けている気がする。自由意志否定派なのにね。
これで3500字くらいか。ここまで3時間なので俺のコスパは1分間に19文字です。最悪。ざっと計算したけどこのタイヤだと毎日なにかを執筆したとしてもミロードになるまで13年くらいかかる。速度を上げたい。いま抱えている意志や感情を日本語に翻訳する機構がかなり衰えている気がする。おそらく多言語に侵食された俺の頭の中には既存の言語では表現できないイデアがたくさん渦巻いており、文章としてアウトプットするたびに少しずつ含意が削ぎ落とされていってしまっている。語彙力を上げるか……。語彙力を、あげます!(みちお)昔のほうが語彙力あった気はするのは確か。引き出しが少ないというよりイデアの棚がごった返しすぎて整理がついていないのが問題な気がする。あと英語特有の同義語の言い換えラッシュが日本語にもうつってしまうところとか。日本語うまくなりたいデース。
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