幻日
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ようやっと少しは気が落ち着いてきた。それでもだいぶ酷い。
絵を描く。生み出すというよりは吐き出すような気分で、日々の心象のカルテとして描く。
一口に絵を描くと言ってもいろんなやり方があって、描きながらどういう絵にするか考えたり、或いは頭に浮かんでいる画を現実に写し取ろうとする描き方もある。今自分が傾倒しているのは後者で、頭に浮かんだ一枚の絵を何とか紙面や画面上に写し取ろうとする。今のところ再現度38%くらい。このやり方は存外楽しい。これを100%に出来たらもっと楽しいだろうか。恐らくそうではない。無駄だ。技術力と幸福度に関係性はない。
しかし不思議なもので、脳内のそのビジョンを細部まで見ようとすると隠れるように絵が空中分解する。そこの色はなんだ。そのポーズはどういう角度だ。背景はどうやって描かれている。そう問いかけても答えはない。つまりおれはおれの頭を完全に覗き込むことが出来ない。おれはおれを制御できない。みんなそうなんだろうが。
珍しく本を読む。暗い話ばかりだ。しかし楽しい話よりは余程気が落ち着く。否、これも正確ではない。おれにとって文学の理想形は絵本である。絵本に暗い話は少ない(ないわけではないが)。では絵本は「楽しい話」に属するだろうか?それも首を捻る。ようするに、おれにとって絵本とは空っぽなのだ。絵本に想いはない。絵本に人はいない。絵本にノイズはない。絵本は何も伝えようとしないし、伝えようとしてはいけない。絵本は黙っているから。絵本を通して何かを伝えようとすればそれはプロパガンダだ。絵本は無である。だからおれも絵本を読んでいるときは心地よく空っぽでいられる。最も死に近い時間を過ごせる。胎内を出て然程月日が開いていない子どもたちにはそれが心地よいのだろう。子守唄に絵本を読むのも、まさしくこういうことである。
娯楽。将棋をさす。将棋もまた空っぽでいやすい。恐らくこの世で最も運要素の絡まないゲームであり、それはある種世界の法則から最も遠い位置にいる。娯楽というよりは瞑想と言った方が近いかもしれない。将棋をしている時、おれに自意識はない。そして将棋はかなり時間を消費する。つまり、睡眠以外での時間旅行術。適当に1時間飛ばしたい時はコンピュータと将棋をさす。最近わかったが、おれは人生の短さを恐れ無為な時間消費を疎んできたがだからといってやるべきことだけ詰め込んでもモチベーションが保たないっぽい。だから将棋やおりがみ、読書といった「清らかで無為な時間消費」はやった方が結果的に得になりやすい。
憂い。気付いたが、おれは精神をやられると風刺的なものばかり作る。遠方から石を投げるというより、石ころ帽子を被って近距離で刺している。おれはもうそれにうんざりした。おれはおれ自身を風刺してやりたい。次の行でおれを殺してやろうか。
風刺作品というのは何かを攻撃する意図よりも「何かを守ろうとする意図」がある。戦争の風刺画は平和を望んでいるからだし、政治の風刺画はよき社会を望んでいるからだ。お前の場合もそれは変わらない。しかし、お前は結局その保護対象を作品を通して自己表現に利用しているだけだ。それはお前が最も卑下する行為であり、お前が守ろうとしている者たちが最も望まなかったことじゃないのか。お前こそが似非だよ。
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