嫉妬
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最近、というか大方昔からだが、何かに対する批評に対して、
「じゃあお前がやってみろよ」だとか
「お前は◯◯さんみたいにできるの?」だとか
「嫉妬乙」というコメントが目につく。
僕としてもどうにも気に食わない。何がと言われると言いたいことが多すぎてこの余白は狭すぎるわけだが、要するに「的外れ」すぎるのである。
さらに言うと、これらの意見は心ない批判というよりも的確な「批評」に対しても容赦なく飛んでいる。
例えば「この◯◯下手だな、俺の方がうまい」等という批判が飛んできたらまだ「お前がやってみろよ」も理解できるだろう、「俺のほうがうまい」と豪語しているのだから。
しかし下手をすると「ここはこうこうした方がいいんじゃない?」という意見に対してすらこのような攻撃が飛んできてしまう。
確かに、人が何かを批判する時は心理学的にもその対象に対して憧れのような物を抱いていることが多いという。
しかし当然そうでない場合もあるわけで、それに対して「嫉妬乙」というのはあまりに的外れだ。
彼らは「評価内容」に対しての反論ではなく発言者の「人格」に対しての攻撃を行っているのだから。いわゆる論点のすり替えである。
しかしながら、よく聞く「料理を作れない人がレストランの料理をまずいと言っちゃいけないのか」という意見があるが、場合にもよるがこれも少々違う。
なぜならば、レストランというのは客が料理人に対して「金」を払っているからである。
この時点で料理人は金を貰う代わりに客を満足させる責務を負うわけだ。
当然、客に料理がまずいと言われて「じゃあお前が作ってみろ」なんて言った日にはそのレストランは近い内に潰れるだろう。
だからと言って客が常に正しいわけでもないのだが、難しいところ。
この言葉のバカバカしいことこの上ないところの1つは、「お前がやってみろ」と言われて実際やった所で何一つ解決しないということである。
以下、「お前がやってみろ」と言った側をA、言われた側をBとする。
もしBが実際にやってみたとして、それが批評対象よりも「上手」だったとしよう。
これでAは満足なのだろうか。僕はそうは思わない。
なんとかして難癖をつけるだろう。たとえ客観的に見て上手だったとしてもAが「下手」と言えばそれを論理的に崩すすべはない。上手下手など所詮人の価値観でどうとでもなるからだ。
では、もしBが実際やってみて、それが批評対象よりも「下手」だったとしよう。
一見、Aが好き勝手にそいつを罵倒できるように思うかも知れない。
しかし、「お前がやってみろ」理論では「物事を批評する場合はまず自分が物事をやらなければならない」となっている。
ならば当然AはBを批評する前に自分の技術を晒さなければならない。
こうなるとループである。こじれた二人は稚拙な口喧嘩に発展するだけだろう。
極めつけに、この言葉が匿名性のある場所で放たれた場合、例えばニコニコ動画のコメント欄などに書かれた場合、AもBもどうしようもないということである。
まさか「◯◯さんの実況動画で批評コメントをして『じゃあお前がやってみろよ』と言われた者だが、実際にやってみた」などという動画でも上げるのだろうか。それはそれで面白そうな気もするが、万が一こんな動画を上げたとしてもAの目に止まる確率は非常に低い。
止まった所でAに叩く権利はないので「◯◯さんの実況動画の批判コメントに『じゃあお前がやってみろよ』とコメントしたら実際にやられた者だが、自分もやってみた」という動画を上げなければならない。もはやコントである。
死ねと言われて死ぬ人はいないように、お前がやってみろと言われてやってみる人などいないのだ。
「じゃあお前がやってみろ」問題については割と昔から色々と議論されているが、どうしてこうもこじれるかというとケース・バイ・ケースすぎるからなのかも知れない。
一つ言えるのは、ある事柄が「できない」ことと、その事柄を評価できないことにはなんの因果関係もないということだ。
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