夢の中でも君を愛す
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
OMORI、10時間くらいプレイしたけどまったく終わる気配がない。これレジェンディアくらいのボリュームある?もしかして。俺は基本的にゲームはボリュームがあればあるほどいいと思っているタチだから何時間かかってもいいぜぇ。来いよOMORI!!
マリみたいなキャラに弱いんですよね……マリとか、アヤノとか、2号(康子)とか、そういう、なんていうのかな……最も世俗的なタグ付けをするなら「母性」とか「バブみ」みたいなことになると思うのだけど、そんな言葉では言い表せないキリストのような慈愛を持ったキャラが……。しかし神ではなく、人間であるというしがらみが……そのすべてが美しいんですよ……。ちなみにトカレフのイザベラもそれに当たる。ただイザベラって名前は「リア」に変わるかも。理由は覚えてないけど……。OMORIが終わった後メチャクチャトカレフ作ると思う。結局俺はいつもそういうふうにできている、事前に摂取したコンテンツの影響をひたすらに受けて推進される。
OMORIだいぶ面白いな。ずっと語れるかも知れない。さすが爆ウケしてるだけある。労力が凄いよね……何枚描いてんだっていう。スタッフ何人だっけこれ?一人じゃなかったのは覚えてるけど。多分俺は「労力」そのものをある程度芸術性の指標として買っているのだと思う。mononokeも伊勢田勝行もミロードも、他と比べて何が特別にすぐれているかといえば労力としか言いようがない。そういう意味では、例えばちゆ12歳とかも凄いと思っている。そうはできねぇんだよ、何年も何十年もひとつのことに専心するなんてのは。口でいうほど簡単なことじゃあない。長く生きれば生きるほど肌で分かる事実だ。ほんの5年ほど前のブックマークリストのおびただしい数の屍を見れば分かる。
これかなり好き。原作より好きかも……(絶対に言ってはいけない言葉) こういう仕掛けのある曲って普通にアリだと思うんですよね。パっと思い浮かばないけど。だからこそ革新的だと思う。ジョジョの特殊OPとか好きでしょみんな……。音楽はどこまでいっても音楽であることに縛られるしかないので、その枠組みを一時的にでも破壊するようなことができればインパクトになるよね。「キルミーのベイベー!のさらにウザいやつ」とかもかなりうまい。適当に壊しているように見えるけどとてもsophisticatedな楽曲ですあれは。すべての破壊がCメロのうつくしさを原曲の数百倍に際立てている。ASMRのようなジャンク快楽にはそういうことはできない。ASMRには音楽のような人生を変える力はない。ただ、Unfortunately…誰も人生を変えられることなど、もう望んでいないんだよ、この世界では……。
「ある地点からある地点までのその人は好きだった」みたいなのって、そんなにおかしいことなんだろうか。人を愛すって、必ずそいつの道筋のアタマからケツまでの全部愛さないと駄目なんですか?……いや、ごめん、それは正しい。「人を愛す」上ではそうでなければならないと思う。ただ、「表現者を愛す」上では別だ。人は変わる。人が変われば表現が変わる。「表現者を愛す」というのは「表現を愛す」とほぼ同義なのだから、その表現が根底から変わってしまうような変化があれば「好き」が途切れるのはごく自然なんじゃあないか?何が言いたいかと言うと……俺はmononokeも、伊勢田さんも、「表現者の極頂」として愛しているのだ。その要件を満たさなくなったのなら、愛す道理はない……こんなことはいちいち復唱するまでもなく何度も唱えてきたがね。「ノイズ理論」は未だ健在だッ!!ノイズを抑制することをやめた時点で失格なんだよ……。無論、俺も自身を表現者などというつもりは毛頭ないが……こんなノイズだらけの人間が表現者であってたまるものか。
mononokeは、FANBOXというグリードと63420583削除という大罪により 「そうであること」をやめた。それだけのことだ……だからといって彼をアタマからケツまで見放しているわけでは無論ないが。つまり、ここに明記しよう!俺が愛したmononokeとは、「泣いた赤鬼」から「63420583」までの約9年間だ。その先は知らないね。63420583を「消した」という事実の重大さをみんな軽く見ている。作品を削除するとは、自分の意志でその歴史を「なかったことにする」ということだ。ただでさえ彼は何十枚も消しているので許しがたいが、あれだけは、あの一枚だけは消してはいけなかった。それは今までのすべてを否定することだから。あの罪をどうにかして贖わなければもう愛せない。もっとも、あの9年間においての彼に対する愛は誰にも負けんがね…… 実を言えば、ミロードも俺は同様に「表現者」として愛しているにすぎないのだけれど、彼はすでに故人なので「絶対にこれ以上のボロが出ない」という点で実質はunbreakableな存在となっている。そうなればもはや人として愛しても大差はない。永久だ……ミロードだけは。逆に言うと、コロブチカの方なんかは実は「人間」として愛しているのですよ。表現ではなく、人間性を。そのあたりが所謂界隈とかいう蠱毒の壺と軋轢を生んでいる部分なのだと思う。本当は見ているものがまるで違う。代わりなどない……。 某クソホモキチガイチンカスボケアホマヌケゴミフェイク野郎のオフパコ体験記()を見てガチで不愉快になった。今年一番不愉快になった。まだイラついてる。ああいうやつがいるからこの世から悪がなくならないんだ……別に「オフパコ」しているのが悪いっていうんじゃあない。それまでのヤツのすべて、その心と体の不一致がたまらなくイラつくのだ。言ってもわかるまい……説明するには余白が足りなすぎる……まぁいい、いずれ裁きが下るだろう……俺は「信じて」いる、神の裁きというものを。悪を成した者はいつか必ず裁かれる。まるでオカルトやスピリチュアルのようだが、それは違うッ!よく誤解されるのだが……思うに、「信じる」という言葉の多義性が問題なのだと思う。これには大きく分けて二つの意味がある。「実在すると考える」ことと、「信頼する、心を寄せる」ということだ。それらは似て非なるもの。俺の「信じる」とはッ!「何が起ころうが常に『それ』の味方でいるし、仮に『それ』が偽物だったとしても、その信仰とともに心中する覚悟がある」という意味だッ!信仰とは!暗闇の荒野に!!進むべき道を切り開く事だッ!それは、或いは博奕にも似ているかも知れない……チップをオールインするとき、博徒は「勝てる」と信じて(意味1)いるのではない。「勝つという事実が客観的根拠を持ってその先に在る」と思っているのではない。そんなものは博奕ではなくホームズ並の洞察の賜物か、あるいはただのイカサマだ。「賭ける」とは、「どうなろうが俺はこの道を行くしか無いし、この『俺』が選んだ以上、その先が行き止まりだろうが悔いなく心中してやる」という覚悟によってのみ行われるのだ。わかるかい……?俺が生きている人生っていうのはそういうものだ。はじめっから戻る気なんてサラサラないのさ……「幸福」も「成功」もすべて捨ててやるッ!ただ、君の世界へともに旅立ちたいだけだ!神を愛するように……ミロードのことを愛している……。僕は、芸術表現において「人間」という存在は作品という波形を乱す「ノイズ」と考えている。
このノイズを可能な限り取り除くこと、いつも作品の裏側に存在せざるを得ない「作者」の存在感を限りなくゼロにする事が表現者の役目だと思う。
作品を消化するのは人間なのだから、作品と作者を完全に別個に考えるなどできはしない。そんな器用な生き物ではない。
だから「作品の質」を最大化するために(僅かでも作る側の人間性によって受け手に不快感を与えないように)、彼らは人間をやめなければならない。
どんなふうに生きているのか、働いているのか、年は、性別は、それらすべて隠し通して言葉のひとかけらさえ発さずに「この作品を作っている存在が人間としてまっとうに生活している姿をまるで想像できない」と思わせるくらいにしないといけない。
むろん、現実にそうでなくともよいのだ。「そうであるように見せていれば」構わない。実際には普通に働いて友達と遊んで飯を食い糞をして愚痴も言っていようが、それが外から一切見えなければよい。
目的はあくまで作品にノイズを取り込まないことである。そういう意味で、「存在」ではなく「存在感」を消せばいいのだ。
https://resurrection237.blog.fc2.com/blog-entry-450.html
Comments ( 0 )
No comments yet.