地球平面説
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[元記事:俺の脳内(in English) 翻訳:藍]
どうも、藍 Michaelだよ。
今考えられる「なりたい自分」が「男娼で日々の糧を稼ぎつつ趣味で長編小説を書くクリスチャンの地球平面説信者」以外の何物でもないので社会に向いてない。
https://resurrection237.blog.fc2.com/blog-entry-628.html
これは約3年前、記事ナンバー628番にての俺の言葉だ。
「男娼」については語っただろう。物書きへの憧憬も見せているはず。クリスチャン?みんな知ってる。……では、「地球平面説信者」は? 一体全体どこから来たのだろう? もしあなたが考えてみるならば、前述の要素と比較してもあまりにも関連性が見えない。藍の独白において最も突拍子がなく、秘匿されているこの「地球平面説信者」、はたしてあれはジョークだったのか? それとも本気で彼は地球が球体ではなく平らであると信じているのか? 本人に聞いてみよう。そう、俺がその本人だ。短い答えは――「イエス」。俺はいかにも地球平面説信者である。
さて、誤解しないでほしい。それは正確には微かな光のようなほんの少しの信仰だ。たとえば誰かが「お前に宇宙旅行のチケットをやるから、地球をその目で見てこいよ。球体だったら罰金500万円な」と言ってきたら、俺はたやすく「何言ってんだ、地球は球体だよ」と返すだろう。藍は本気で―正確には、”科学に基づいて”―地球が平らであると信じているわけではない。さらにいえば、俺はクリスチャンを自称しているが、神が本当に超次元的な空間に”実在”していると信じているわけではない。(かといっていないと信じているわけでもないが)「神の実在を信じること」と「神を信じること」は同一のことではなく、実在していようがいまいが、俺は神を信じることができるし、またその恩恵を賜ることも何の問題もなくできるからだ。このあたりについては前に詳しく説明した気もするし、してない気もするが、いずれにせよ今回の話題とは外れるのでまた今度。
さて、俺が採る地球平面説へのポジションについては、それを完璧に説明した言葉があるので、それを引用したいと思う。
平面説は内容よりも、その説を唱えること自体に意味があって、それは反合理主義、反権威主義の象徴として機能し続けていると思う。実際政治の世界なんて作られた”球体説”に溢れてるから。
―Pocca
なんと美しい説明だろう! 俺の考え方は完全に同一と言っていいほどにこれとシンクロしている。即ち、実際に平面であるか否かが本当の問題なのではなく、「疑念」を抱くということ、ポパー主義的な「反証」への衝動こそが地球平面説のコアなのだ。考えて見て欲しい。地球は丸い。なるほど。……どうやってそれを知ったの? 「写真があるから」?「映像があるから」? 捏造可能だ。あなたが宇宙飛行士で、実際にその目で地球が丸いさまを目撃したわけでもない限り、主観的証拠にも客観的証拠にもなりえない。それとも「みんな言ってるから」?「常識だから」?残念ながらそれは科学的根拠にはならない。しかし同時に人々が地球が球体であると信じている最強の理由でもある。ウソだとするには、あまりにも信じている人が多すぎるのだ。……本当に? 第二次世界大戦の頃、日本政府は国民に忠君愛異国を訴え、天皇は神で、日本の戦争は聖戦で、鬼畜米英を粉砕するための正義の戦いなのだと謳った。たとえ戦況が悪化しても、大本営発表は「うその勝鬨」をあげ続け、国民は最後の最後まで、本気で日本が圧勝していると信じていたのだ。玉音放送が流れるあの瞬間までは。敗戦が決定してから、国民の”常識”は180度塗り替えられた。学校の生徒たちはみな、それまで使っていた国語の教科書に、先生に言われて教室で教科書に墨を塗っていった。歴史を封じ込めたのだ。「嘘を言っていた」という「本当のこと」を、それごとなかったことにしてしまったのだ。もう一度言おう、当時の国民はみんな―あるいは、とても多くの人が―「戦争は聖戦で、天皇は神で、そのために死ぬのは当然である」と本気で信じていた。では今は?……そう、今の俺たちはもちろん知っている、天皇は国の象徴で、人間は皆平等で、正義のための戦争などないと。……しかし、かつてああまであっさりと騙された我々が、「なぜ」「今」「別のなにかに騙されている」とは思わないのだろうか?過去の人々は馬鹿だっただろうか?我々は彼らより賢いだろうか?俺はそうは思わない。歴史という「失敗の結果」を知っているから正解がなにかをわかっているだけだ。『イカゲーム』で強化ガラスと普通のガラスのどちらかを当てて進んでいくゲームがあったが、我々は普通のガラスを踏み抜いて死んだ者のおかげで道を知っているにすぎない。彼らより先の道まで行けるからといって、我々がガラスを見分けられるわけではないのだ。少なくとも、1940年代の日本国民が見ていた「日本」は、世界にとっては「平面なる地球」に等しいものであった。数千年以上も天動説を信じ、四体液説を信じ、つい20年前ほどにはノストラダムスの大予言で大騒ぎしていた我々「マジョリティ」が、今回も同じトリックに引っかかっていないと、はたしてなぜ言えるだろうか?
もう一度繰り返すが、俺は本気で地球が平面であると信じているわけではない。だが、「地球が平面である」と信じている人を馬鹿にしてもいない。普通のことのように思えるが、これは実は大きなレアケースだ。ほとんどの人は地球平面説信者を大いに馬鹿にしている。俺が気に食わないのはむしろそこである。これは黎明期以降のインターネットに一貫して蔓延っている「馬鹿な人間はおもちゃにしてもよい」という規範の一種だ。しかし、今回のケースにおいて「馬鹿な人間」も「おもちゃにしてもよい」も、どちらも間違っている。「馬鹿」というのと「無知」であるとここでは定義しよう。もしインターネットが知識のなさを笑い合う大会の会場だとするならば、あなたが好むと好まざるとにかかわらず、所謂「地球平面説信者」は予想外に強い。たとえば「地球は丸いに決まってんだろ。平面だったら船で旅行する奴らは端まで行ったら全員宇宙に落ちるわw」と思っている地球球体説信者と、一般的な地球平面説信者であれば、俺は前者のほうが「馬鹿」であると思う。議論をこの一点に絞るのであれば、おそらく地球平面説信者側は理路整然と彼を論破できるだろう。仮に今この瞬間、地球がお皿のように平面になったとしよう。地球の質量・密度・厚さを考慮すると、平面地球の「真ん中」で生きている人はおそらく今までとまったく問題なく生活できる。しかし地球の端に近づくにつれ、この地球上の重力は少しずつ”湾曲”し、どんどん鋭角に「中心に戻ろうとする」力が働くことになる。平面地球の端へ端へと走っている男がいたとするなら、彼はまるでどんどん険しくなる坂を登っているような感覚に陥るだろう。即ち平面地球において「端から宇宙へ落ちる」ということはありえず、まったく逆で、登山中に滑落するように「端から地球へ落ちる」恐怖が生まれるのだ。端を超えた場合、むしろ登山者は安心することになる。下り坂にさしかかるように平坦になるからだ。
実際のところ、地球が平面であったと仮定しても、実はほとんどの「科学」は問題なく動作する。エラトステネスの計算も、太陽が地球の数千キロ圏内で直径51キロだとするなら成立するし、時差は太陽光がスポットライトのように当たっているとすれば説明がつく。重力は9.8m/sで地球が”上昇”しているとするとこれも問題なくなる。
彼らはデフォルトでアウェーであるだけあって、彼らなりにものごとを調べている。故にあなたが「地球は丸いだろう」くらいの知識しか持たず彼らに真っ向勝負を挑んだ場合、高確率であなたがレッテル貼りか人格否定に逃げて終わる羽目になるだろう。
しかし、真の問題は地球平面説信者が馬鹿か否かではない。俺が最も言いたいのは、「仮に彼らが馬鹿だとしても、それを好きなように叩いておもちゃにしてもよい理由にはならない」ということだ。たとえばここに一人のクリスチャンがいるとしよう。「神は存在する!神を信じれば救われる!神の審判の日は近い!」と言いながら宣教してまわっていたとする。どれも科学的根拠も何もない発言だ。さて、彼を「馬鹿」だとあざけり、いわゆるsyamuや野獣先輩のように「おもちゃ」にして遊ぶことは果たして許されるだろうか? 許されない。わが国では日本国憲法第20条で信仰の自由が保障されている。それを侵害しようとすればたちまちあなたは憲法違反の国賊となるだろう。――ではなぜ、「地球平面説信者」には許されるのか?大きな違いがあるとすれば、それは(大衆の主観からすると)神の実在性は証明されてもいないが否定されてもいない、しかし地球が球体であるということは客観的に証明されている事実である、ということだろうか。 …………本 当 に ? あなたは今、高確率でダブルスタンダードに陥っている。
知っての通り、神が本当にいるかどうかはまだ証明されていない。否定されてもいないということだ。つまり、死んだら人間がどこにいくのかと同じように、「誰にもわからない」ことと言える。わからないものを「いる」とか「いない」とか決めつけるのは”正しくない”ことだ。もしあなたがそんなふうに考えているのなら、あなたは途端に進化論を肯定する権利を失うことになる。ダーウィンの進化論は、正確には「ダーウィンの進化論”仮説”」であり、「現状いちばんもっともらしい理屈だから、とりあえずこれでいいだろう」と据え置かれているにすぎない。次点で信じられているのがおそらく創造論だが、神がいるかもしれないと心から思っているのであれば、あなたはこのどちらかの杯をとることはできない。とるとするならば、それは科学的根拠に基づくものではなく、「こうあってほしい」というあなたの欲求に依って選び取られたものとなる。同様に、あなたが無神論者だとするならば、あなたの「神なんているはずがない」という考えもまた、「神はきっといるだろう」という考えとまったく変わらぬ”無根拠さ”と”非論理性”で構築されていることになる。もし「こうあってほしい」という欲求で、科学的に無根拠な信仰を抱くことが無知だというのであれば、地球平面説信者も無神論者も同様に「馬鹿」だ。
繰り返すが、俺がいう「地球平面説信者」とは、地球が本当に平面か否かが問題なのではない。常識とされている物事にも常に疑念を抱き、それ以外の道があるかもしれないといつも心に留める反証主義の精神のことだ。この前「なぜ地球平面説信者は地球が平らだと信じて疑わないのか?」というような題名の釣り記事を見たが、あえてラディカルな言い方をするなら、これはまったく逆で、地球が丸いと信じて疑わない人は「地球が平面であるはずがない」と決めつけてかかっているのに対し、地球平面説信者は「地球が平面であるかもしれない」という疑念を抱いている人のことだ。前者の人間がもし500年前に生まれていたなら、おそらくガリレオ・ガリレイが地動説を唱えて裁判にかけられている時、傍聴席で彼をあざ笑っていたことだろう。
なにかに疑いを持つことで進化してきた科学。それを盲目に信じて疑わない者と、常に疑い続ける者。はたしてどちらが、「愚か」だろうか。
次いで言うなら、俺個人としては、「地球平面説信者」であるということは、「地球平面説信者をおもちゃにする人間」と比べてよほどましである、というのがある。つまり実際的には俺は「アンチ・アンチ地球平面説信者」と呼ぶのが最も正しい。俺はアンチアンチチェンソーマン信者だし、アンチアンチヴィーガニズムだ。地球平面説信者はただの「そういう思想の人」だが、それをあざけり笑い「間違っている人間には何をしても良い」というようなミスコンセプションを抱えてストレス発散しているような人間はそれだけで明確に「悪い人間」であることがわかる。この二人のうちどちらかと友達になれというなら、俺は迷わず前者と握手をするだろう。
…………というのが、「男娼で日々の糧を稼ぎつつ趣味で長編小説を書くクリスチャンの地球平面説信者」の「地球平面説信者」の部分にzipされていたメッセージです。受け取って……ください……これが……せい……いっぱい……です……伝わって……くだ……さい……
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