吾唯足知
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僕は残酷なようですが、
自ら不幸の沼に進んでハマっている人は、
助けようがないと思います。
そういう人も世の中にはいるし、
僕の幸せには関係ないので…。
みなさんはどうですか?
全然それで良いと思います、
そんなことより大事なのは、
一体俺やあなたには「自ら不幸に進んでいく人」を止めるために動く、どうでも良くない人が何人いるのだ?
俺がついうっかり不幸へ突き進むことになってしまったら「バカヤローそっちは間違いだろ!」と止めてくれる人が何人いるのか?
そういう人が少なくなっている時代であることは確実でしょう。
それが問題だと思います、
どうでもいい人は別にいつだってどうでもいいんです
なるほどなー(アイギス)。
自ら不幸の沼に浸かってる人問題は本当に深刻ですよね。「おれには関係ない」というのは割とまっとうな立場のひとつで、アドラー心理学的考え方ですよね。健全に言い換えれば、不幸に閉じこもっているのはお前の問題であってお前で解決するしか無いのだから私に出来ることはない、ということ。
倫理の金字塔(irony)のChatGPTも似た考えを示している。
Remember, ultimately it’s up to the individual to choose their own path. While you can offer guidance and support, you cannot force someone to be happy.
Ultimately, you cannot fix people who do not want to be fixed. You can offer suggestions, resources, and a listening ear but you cannot force someone to adopt a happier outlook against their will. Accept that some may choose to remain unhappy and focus on your own happiness and the happiness of others who want it.
また多くの哲学者も、自発不幸人(じはつふこうんちゅ)に救済の余地はないと示している。
幸福は意志の力がいる。幸福になりたければ自ら幸福になると誓うことだ。
要するに、倫理王たちがこぞって「見放せ」と言っているわけです。それほどに重篤なのだ。
問答しているうちになんとなく最も丸い手段がわかってきた。
哲学者アランによれば幸福は伝染する。つまり私自身がリーディング・フィギュアであり続けることがそのまま救済の光になるのだ。これなら何も強制力はない。直接語りかける必要もない。
とはいえ、これさえもやり方を違えてはならない。アラン先生の言葉とは裏腹に、実際には「幸せな人」はその存在自体が不幸な人に劣等感を抱かせ、さらなる不幸へ誘う事がままある。SNS支配時代の現代ではそれが顕著に起きている。but why?
比較の効果: 不幸な人は、幸せで明るい人と自分を比べて、自分に何か足りないものがあるように感じることがあります。それに比べて、自分の人生は良くないと感じるかもしれません。このような羨望や不足感は、さらなる不幸を招きかねません。
自分の欠落や失敗を浮き彫りにする: 幸せな人、成功している人を見ると、自分の欠点や問題、失敗が浮き彫りになることがあります。そのため、自分の人生におけるネガティブな部分に目が行ってしまうのです。
孤立感や仲間はずれを感じる: 自分自身が幸せでないときに、幸せな人たちに囲まれていると、自分が仲間外れであるかのように感じてしまうことがあります。その結果、「自分は孤独だ」「周囲になじめない」という感情が増幅されることがあります。
不真面目だと思われること: 不幸な人の中には、過度に「幸せ」な人や楽観的な人を、本物でない、あるいはありえないことだと感じる人がいます。このような皮肉は、自分自身の不幸を助長することになります。
なるほどなあ(ミノル)。
「なかなか気づけんよね 何もかも既に持ってるのにね」と謳ってもらってなお、我々は未だにそんな苦しみに囚われているのか……。
ちょっと話が逸れるけど、この前「恋愛ではない愛」の話をしたじゃないですか。2017年に書いたやつ。最近知ったんだけど、藤井風は「恋愛の歌を作らないのか」と聞かれたときこう答えたらしい。
「今まで作ったこともないし、これからも作らないと思う」
「わしはもっと大きな愛について歌いたい、日本にはそういう歌が少ないから」
もうワイやん。やっぱはじめっから私は藤井風とつながっていたんですよ。……とはいえ「死ぬのがいいわ」や「さよならべいべ」も恋愛の歌ではなかったのか。どっちもハイヤーセルフってこと?
まあ話を戻すと、なるほど人の幸せが他者を不幸にするメカニズムはわかった。実際2005年のハーバード大学の教授の論文でも「隣人達の収入が上がることは、自分の収入が減ることと同じ程度の不幸をもたらす」と書いてあるらしい。
いろいろ見てると、なんとなく解像度があがってきたな。「他人の不幸は蜜の味」って言葉があるじゃないですか。akaシャーデンフロイデね。ありゃあ不正確だわな。ヒトにそういう性質があるのは間違いないよ?線条体が反応しちゃってんだから。しかし「他人」という言葉は広すぎる。実験に拠れば、人の不幸に線条体が反応するのは「妬ましい他人」に対してのみです。誰彼構わずではない。自分より不幸な境遇にある人や、大切な人が不幸になってもシャーデンフロイデは発動しないことがわかっている。他人の幸福に関しても同じ。妬ましい他人の幸福は疎ましいが、大切な人の幸福は喜ばしい。
なあんだ、じゃあ簡単じゃないですか。すべての他者を「妬ましい他人」の枠から外せばいいんでしょう?イージーピージー。急に現実味を帯びてきました。
いや、本当に、思ってるほど難しいことじゃないよこれって。妬みって、瞬間的な爆発力はあるけど得てしてきっかけが脆弱なのよ。本当にくだらない理由でしか人は妬まん。逆に言えば崩すのも簡単ということ。
おさらいです。「愛とは同胞意識」。妬みは同胞意識によって消す事ができる。「おれとお前は違う」から「おれとお前は同じ」に至った瞬間、境遇を超えて人はつながれる。だから風まろはしきりに「みんな同じ、みんなひとつ」と唄ってきたんですね。同胞意識を植え付けるために。
まとめると、
- 自不幸人(じぶ こうと)はガードが堅牢すぎるので直接崩すのは難しいから、自身が「自立」した生き方を見せ続けることで間接的な寛解を図る(情動伝染)
- これがうまく働かない場合、相手方は他者の幸福を自らの幸福と思えない精神状態にある。
- 「他人の不幸は蜜の味」が発動するのは「妬ましい他人」に対してのみ。親しい人、大切な人、または自分より不幸であることが明確な人には発動しない。
- すべての他者を「妬ましい他人」の枠から退ければ、シャーデンフロイデは消滅させられる。
- これを行うには、相手が「愛」=「同胞意識」をもつ必要がある。
- 「他者の幸福を自らの幸福と思えない精神状態」「シャーデンフロイデ」は、「愛(同胞意識)」によって解消される。
- 「同胞意識」を抱くには、「わたしとあなたは違う」から「わたしとあなたは同じ」への変遷が必要。[WIP]
次のステップは「どうすれば同胞意識を抱けるようになるか?」になります。
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