勝てぬ戦
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~前回までのあらすじ~
意味=俺にとって大切なもの
じゃあ俺にとって大切なものなものってなんだ?→永久迷路
大切なもの、何にもないわ……。なーんにもない。今日一日考えてたけど、なーんにもない。何がなくなってもまったく困らない。あれ?おかしくない?何を喪ってもたまらなく悲しいのに何がなくなってもまったく困らないのは矛盾では?強いて言えば5年以上ある人とのつながり……ですかね……でもそれは「なくなったら困る」という視点で見たとき浮かび上がる答えで、「大切なもの」という視点では出てこない。大切なもの、大切なもの…………。見方を変えてみよう、俺が命を張ってでも守りたいもの……。=深川麻衣
俺にとって大切なものって深川麻衣だったの??ただのキモドルオタになるが……。いや待てわかった、俺にとって大切なものは「人の優しさ」だ。此れに違いない。誰かの優しさを見たとき、たとえそれが自分に向けられたものでなくても、心があたたかくなるものだ。ただしそれは本物の優しさである必要がある。俺には優しさの本物と贋作を見抜く眼がない。状況証拠と十分な実績がなければ……。そもそも人の優しさをインターネットで摂取することはできない。インターネットの優しさは10年前にすでに死に絶えた。
他人の不幸を悲しめて、他人の幸福を祈ることが出来る人、そういう人の幸せを何に代えても守りたいとずっと思ってきた。それがおそらく俺にとって「大切なもの」であり「意味」であり、秋田ひろむ的に言うなら俺が生きている場所だろう。
それでも、こんな憎たらしい世界でも、
奇跡みたいに優しい人がいるから、
ここから離れられない
僕はこの時間に生きてるんじゃない
僕はこの世界に生きてるんじゃない
僕はあなたに生きている
どんな天才アーティストより、どんな権力者より、ただ「奇跡みたいに優しい人」が俺にとって唯一尊敬できる存在だった。心の底から幸福を願える存在だ。
しかし優しさとはなかなか奥が深いもので、ただの全肯定マシンになることが優しさではない。ただし肯定/否定の選択肢をただの一度でも間違えればそれは「偽善」となるのだ。つまり「奇跡みたいな優しさ」は、何年何十年もの間その選択肢をかいくぐり続けた、針の糸を通すようなとてもとても細い隙間にのみ介在しうるまさしく奇跡の産物なんです。
ああ、しかし、人の優しさを守るために俺に何ができるというのだろう。それがさっぱりわからない。俺自身が優しくあること?あまり意味がない気がする。俺は「優しい人に幸せになってほしい」だけで、俺自身がそのメソッドを使って幸せになりたいわけではない。
優しさ、優しさ、優しさ。俺とはいつも程遠い言葉だ。俺は人にやさしくありたいといつも思っている、その思いにまったく嘘はないはずなのに、どうしてこうも叶わないのだろう。ミリエル司教ならどうするか、深川麻衣ならどうするか、そういう問いかけを行動の逐一に行ったほうが良いかも知れない。深川麻衣なら……そうだね……まずSNSを全部消すよね……。そしてインターネットから離れて真面目に生きるよね……。やっぱりインターネットがすべて悪いという結論に定期的にたどり着いている。このブログがn回ほど閉鎖まがいのことをしたとき、毎回何かしら悩んで結果「インターネットが悪い」という答えに辿り着いている。何度考えてもそうなるんです。こうなるともう疑う余地はない気がする。しかし辞めたところでどうすればいい、行く場所など……。(掃除夫になりなさい、藍……掃除夫に……)やはりそれしかないのですか、神様。この世で最も清い職業、掃除夫に転職するほかないか。
幸福などいらない。いっこうにいらない。俺に必要なのは「納得」だ。俺はまだ、何一つ納得していない。納得はすべてに優先するぜ。白石区姉妹孤立死事件に、ジオシティーズの死に、復讐ではない形で報いるにはどうすればいいのか、教えて下さいよハンジさん。
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