ハイネリィランラ
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最近ハチの曲をよく聴く。米津玄師はもうあまり聴かない。ワンダーランドと羊の歌がはじめてDAW上で耳コピをした曲だった。
死人。死人。死人が蠢いている。一度死んだ人に対してどう向き合えばいいのか、未だに分からない。ここで言う死とは、「自分の中のその人に対する人間像の決定的な死」を指す。「それ」が起きた瞬間、目の前の人間はゾンビ以外の何者でもなくなるのだが、それに対する向き合い方がわからない。どれほど尊敬していた人でも、否、寧ろその度合が深ければ深いほど、屍鬼としての醜さは膨れ上がる。もう、周りの人のうち殆どが死んでいる。骨にもなれないまま。土にも還れないまま。彼らはどこへ行くのだろう。昔の自分が死んでしまったことにも気づけないまま。俺も誰かの中で死んでいるのかも知れない。無視してはいけないと思うんだ。せめて向き合って弔いに行かなければ。みんなはどう折り合いをつけているんだろう。切り捨てるんだろうか。銀の鉛玉で撃ち抜くか。十字架をかざすか。蘇らない。蘇らない。英語にはYou’re dead to meというフレーズがある。私にとってあなたは死んでいるという意味で、完全に幻滅した友達に対して絶縁を切り出したりする時に使う最上級の責め言葉だ。伝えたい。が伝えてどうするのか。誰が悪いわけでもない、ただ俺のアンテナと人々が合わなかったというだけだ。とにかく感情の行き場がない。ゾンビは生き返ることはできないし、生き返る気もない、そうする正当性もない。ゾンビが存在しているというだけで、自分の中の「元の人間像」が冒涜され続ける。そうすると今度はきっぱりと死んで欲しいと思うようになる。歪んでいるなぁ。サカナクションのインタビューとか見る限りだと俺に固有な現象ではないと思うんだけど、本当にどうしているんですか?変わってしまった人々に対する向き合い方。最悪なのが、本人にとっては自分の意志で自分のやりたいことをやっているつもりなのかもしれないけど、それは大衆に歪められた自意識が冬虫夏草のようにあなたを操っているに過ぎないということ。昔自身が言っていたこととの相違に、意外と本人は気づけない。それを突けば今度は「人間なら考え方が変わって当たり前」とか言い出すんだろうけど、根本の思想が変わった人はもはや同一人物ではない。記憶を共有しているだけの別人。それこそが人としての死だ。アマゾン奥地で暮らすアモンダワ族という少数民族は、自分で「考え方が子供の頃と変わった」「何かしらの成長」と思ったときは名前を変えて、別人に生まれ変わるという。そっちの方がよほど正当だ。このシステムを本当に全世界に導入して欲しい。なぁ?オージェさん。
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