did-you-get-your-wish
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。

エロ漫画でしか見ない顔

この同人誌が気になりすぎて死にそう。調べても詳細がよくわかりません。一応作家名は書いてあるんだけど、絶対違う人なんだよな。
寂しくなさすぎて絶望してる。「寂しさ」という共通項があったから人類にかろうじて絶望せずにいられたのに。
永劫の「寂しさ」とは、全人類に唯一共通する感情なんです。
[[24-07-08_111535]]
おれって人類じゃなくなったんですか?;;
何でしょうね……もう、全部どうでもいいのです。わたしは硝子戸にぶつかったカマスである。しかし希望を信じて泳ぎ続けるラットとどちらがマシかと問われると、観客にとってはラットだろうが自分をどちらかに置くならカマスでありたい。
リヒターの実験から「希望を信じることが大事」みたいな結論を導き出すポジティブ心理学、狂気じみている。わたしには希望を持っても大いなる力の前では意味がないという結論しか見えない。というより、踊らされているというか……。
定義が難しいが、私の中にいつも根強く存在する概念があって、暫定的にカイジメンタルと呼ぶことにする。伊藤開司の思想、谷川俊太郎の詩、蝶をちぎることを拒絶する原宿さんなどに見られる。
(「美しい蝶の羽をむしって殺せば、世界のどこでも好きな場所で、費用全額持ちの休暇が一週間過ごせます。あなたはできますか?」という質問に対して)
俺は蝶を殺さない自分でありたい。そもそもこの「金を払う」って言ってる奴の思惑がなんか嫌なんだよね。人間を舐めてる感じがして。
この「蝶殺し」を企画した奴に乗っかりたくない。発想が気持ち悪いし、それで人間の心が操れるなんて思って欲しくない。
原宿
うんざりなんだよっ…!
損だ 得だ… 金だ 資産だ……
そんな話はもうっ…!
そんなことを話せば話すほど…
オレたちは浅ましく 醜く 這い回っている……
この釜の底を……!
わかんねえのか…!その姿…
そして そんな姿を見て 主催者は喜ぶ……
オレたちが……
損得に振り回されれば振り回されるほど
血道をあげればあげるほど
結果的に そのゲス野郎の思う壺…
意のまま……!
悔しくねえかっ…!
悔しくねえのかよっ…!!
伊藤開司
人によって解釈が分かれるかもしれないラインなんですが、私にとってリヒターの実験から「希望を持つことが力になる」みたいなナラティブを導き出すのは、カイジメンタルに違反するんですよね。「血道をあげればあげるほどゲス野郎の思う壺」なんですよ。一度助けられたネズミが再び助けてもらえると信じて必死に泳ぎ続けるのを見て希望に価値を見出すのってその構図と変わらない。あるいは最原くんが否定したダンガンロンパ性と変わらない。
フィクションの希望だとしてもみんな、その希望から勇気をもらいたいんだ。
そして、その通りの希望を見せてしまうからこそ、コロシアイは続いてしまうんだ!
そこに至るまでの僕らの悲劇を無視して!
最原終一
硝子を衝立にされて、無力感を学習させられたのちに硝子を取り除かれていたとしても、そこでカマスが再トライするならそれは結局システムに追従することになるんです。entertainさせるだけ。本を正せば不当に無力感を植え付けたシステムが一番悪いに決まっている。カマスの餓死は見世物にされた生への非暴力不服従なのです。たとえそれが自身にとって圧倒的に損な選択だとしても。
そうなんだよ。損得勘定でしか考えてないんだよな、どいつもこいつも。もう一度挑戦すれば魚が食えるとか、信じれば泳ぎ続けられるとか。だからこそのカイジメンタル。僕らは見世物じゃないんだ、と、明確にNOを突きつける必要がある。
心を持つ人間を力だけで動かせると思わないで!!! あまり人間をなめるんじゃないわよ!!!
シェリー・ベルモンド
どうすればより強くNOを突きつけられるか、そればかりを考えています。これがなかなか、難しいねんな……。ただアナーキズムを気取っても芸が無い。谷川俊太郎のように生きたい。今のところ彼ほど強く長くNOと言い続けられた人を知らない。
***
結局藍ちゃんは自由意志を信じてるのか信じてないのかどっちなんだ。言動が回によって支離滅裂すぎる気がしてきた。いや、違うんです……茶臼……自分の中では一本筋が通ってるんですよ……。なんとかまとめ上げたい。最近は思索が帰結を見ずに放り投げることが多い。
まず、自由意志は信じてない。これは間違いない。「自動車がひとりでに動き出したら怪談でしょ?」と云った養老孟司の言葉のとおりです。……最近は自動運転があるからちょっとややこしくなるが。スイッチを押す者がいなければ機械は動かず、そして脳は機械であり、機械Aが機械Aのスイッチを自律的に操作するというのは鶏卵になるのではないかということです。え?オミットしすぎた?でも言いたいことは分かるよね。これくらいはついてきてくれないとウチのシマじゃやってけないよ。
ただ集積された行動パターンというものはあって、これを意志と呼ぶならばまぁ意志はあるでしょう。自由意志と意志は別物なんですよね。さもなくばわざわざfree willとwillで言葉を分けないでしょう。そもそも厳密な自由意志が問題となるのって刑法くらいで、その他一切においては「集積された行動パターン」を意志あるいは自由意志とまで呼んでもほぼ問題ない気がする。人格が経験のモンタージュであるなんてのは当たり前のことだし、その経験を形成する幼少期においてはほぼ経験の選択の操作が効かないというのもまた自明なので。
人格形成のエージェンシーは、見知らぬ他人にしばらく運転されたのち、急にハンドルを渡されて「じゃ、後よろしく」と言われているに等しい。運良く正しい道に連れて行かれていれば良いが、逆走コースだとか眼の前が障害物だとかで渡されることもある。これでハンドルを渡された側を「急ハンドル切れなかったのが悪い」「同じ道に行った人でも正しい道に戻れた人もいる」と責めるのは無理がある。
自由意志はなくとも「意志」があるなら、「よりよい意志」を定義することは可能なはずなので、わいの立場も矛盾はしない……んじゃないですかね。その「よりよい意志」が選択的ではないという問題は残るが、すべての意志が選択的ではない以上は仕方ないことだし。よりよい意志を拡散することで影響を受けさせる事はできるはずだ、谷川俊太郎からわたしが受け取ったように。
記事の感想を伝えられます。
感想レターを書く
定型文を選択
スタンプを選択