26-2-11_2205
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本当は何をされても嬉しくない。何をされても悲しくない。
現実の上では、that is。おれヴァイオレットエヴァーガーデンで全然泣くし。
現実ってクソつまんなくないですか?いや、違うな……現実って括りが悪かったかもね。言語ゲームがつまらない。インターネットって基本的には言語ゲームしか出来ないから。
現実が面白かった唯一の事例が中学の修学旅行なので、体験メインならなんとかなる……のかなぁ……アレはあの頃は不感症じゃなかったというだけな気もする。もうダメかも知れんね。
てかさー……さんざん意味ない意味ない言ってるけど、これもしかして自己成就の予言になってない? 意味なしアリスにしたのは俺だったぁ~!?
逆に(出たよ)今後、全部意味あるって言っていこうかな。
意味なしフローチャート
I can make something good→something goodは私以外にも作れる→他人のgoodではなくあなたのgoodではないとダメなんです
ここまで定石。一意性を示されて満足する人は多い。しかし私は!それでもなお!満足できない。マイケル・ジャクソンのgoodだって誰かの特別だったはずだが、誰もが代わりのgoodを見つけて問題なく生きている。たとえそれがジェネリックgoodだとしても。
スティーブ・ジョブズがいなくなっても、Appleはずっと業績伸ばしてるじゃないですか。
ジョブズでさえ替えが効くんだから、「人間は替えが効く」んですよ。
カズレーザー
あらゆる価値に代用品を見つけて生きていけることを、人は「自由」と名付けたのではないのですか?
petit yuki, 成ったなという感じがある。お前がロリィタノイロォゼを継げ。
18_21という曲、最後の30秒くらいピアノの音ではなく打鍵振動の重低音を主軸として楽曲に取り入れていてすごすぎる。
りみゆ女史の時も思ったが、こういうポップシーンの箸にも棒にもかからないような楽曲を作り続けられる人の原動力とはどこにあるのだろう。好子がどこにもなくないか。可視化されてないだけかなぁ。我々のようなインターネットがすべてのオタクとは違うというわけです。
しかし最もアングラで素晴らしい音楽を作れるのがインターネットのヌメヌメしたオタクではなく社会ド適合者だとするなら、贋札殺しは発狂するでしょう。
心中立とは、自分の心の中をすっかり見せ、契りを交わした相手に愛の証拠をみせ、恋愛の誠実性を立証することです。
https://selfharm-understand.la.coocan.jp/99_blank005030.html
この歌詞BDSMのことだ……。
他人の常識的な部分より狂気的な部分を見ていたい、みたいなことをよく話す気がするけど、「自分の心の中をすっかり見せ」て欲しいということなんでしょうね。取り繕った言葉を喜ばれて嬉しいか?
次は、○○と同じ陣営とは限らないけど。 より大きな意味で、私はずっと○○の味方だから
セツ, グノーシア
グノーシアというゲームはこの一言を成立させるためだけにあったのではないかと半ば本気で思っています。
より大きな意味で味方であってくれるキャラクター、良いよね……。メルルの殉死に感動したのもそういうところがあります。別にユキが生きる選択をしたならそれはそれでお供したと思うんですよ。どこへ行ってもついていく。そういう献身が美しい。
殉死って意味あるよな。意味はある、意義もね。大義ですらある。
誰かに殉死してもらえるほど”嫉妬されるべき人生”はないからです。
こういう初聴100点で100回目視聴0点みたいな曲ばっかじゃないか?最近。
めちゃくちゃ良いんだけど、ここまで短いと耐久値がないんですよ。単調ループを2分強ってのは。ワンショットにかけすぎている。
4分の曲を一個聴くより2分の曲を2個聴く方がドパることに気づいてしまった人類は、この傾向を加速させ続け、やがて1分の曲を4つ、30秒の曲を8つ、15秒の曲を16つ聴くようになるでしょう。いや、もうその地平線まで来ていると言って良いかもしれない。→TikTok
まぁまだ消費期限前なんで、現時点ではメチャクチャ良いです。ただ、現時点で良いってだけなんよね。何が言いたいかというと……
要するに最終、「AかBどっちかしか一生聴けないならどうする?」とか言われたときに選び取る方がおれのおもう良い曲なんです。
わが生涯の全曲
この比較でこの曲は一生誰にも勝てないということです。「曲としてメチャクチャ良い」という初聴の感覚と、「この曲は絶対に一生涯のものにはならない」という長期的な予感(よりも確かなもの)は両立する。
untitled_20241229とかはこの比較に割と勝ち残れる。良い曲だ。本物のラーメン屋だ。
あとボカロバージョンのタ行がトゥア行になってるのはなんなんだ。世界一気持ち悪い個性の出し方すな。視聴の””障害””になりすぎていて歴史上稀に見る失策。
好みは人それぞれだけど、嫌いはある程度一意に定まるはず。「カレーライスはみんな大好きだ」と「爪を剥がされるのはみんな嫌だ」はレベルが違うでしょ。「爪を剥がされるのはみんな嫌だ」と等価になれる「好み」のsweeping statementが存在しない。ネガティブな感覚のほうがユニバーサルなんです。
あらゆるネガティブな信号は生存本能に根ざす危機回避のそれであるはずだから、「何を好むか」という生存の余裕が前提のシグナルよりずっとプリミティブで強固。この辺の非対称性を理解せずに「人それぞれ」って言葉で人の嫌悪を片付けようとする行為はよくないと思います。好きなものを好きと言える自由と、嫌なものを嫌と言える自由の重大さは等価ではないということです。基本的には後者が優先的に保護されるべき。ましてメインストリームが前者にあるなら尚更。

嫌なものを嫌と言える自由だ
生きてる意味はないと思います。
僕はまったくないと思って生きてますね。
生きてる意味があると、意味に沿った行動を取らなきゃいけないので、意味はないと思って僕はずっと生きています。
カズレーザー
カズレーザーとかいうアパシアー。星野源、谷川俊太郎らと比べると流石に格落ちするが……。
アパシアーに共通することとして、基本的に笑顔なんですよね。でもあれは「全部がどうでもいい」という笑顔で、最も原初の笑みと言ってもいいかもしれない。
人生の本質はフロイト、ニーチェ、フランクルが大雑把に提示しており、すなわち「①快楽への意志」「②力への意志」「③意味への意志」の3つである。
フロイトは人間の本質は①であるとし、ニーチェは②であるとし、フランクルは③であるとした。
私にとっては②はまず弾かれる。力への意志とは「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」であり、すなわち左前頭前野の領分であり、ドパガキだから。
自分の考え方には①がもっとも近い。人間の行動は、自覚できない「無意識」によって支配されているというのは、現時点でもっとも科学的な捉え方と言えるのではないだろうか。
ほかはなんか表層的すぎるんですよね。意識の領分でしか話をしていないというか。しかしフランクルの「人生から何を期待されているか」という捉え方自体は良いと思うわけ。ただこれを回答すべき問題だと捉えてしまうと結局「自分で価値を作っていく」という②と同じ帰結になってしまうので、回答はすでに決まっていて、解釈によってプッチ神父的な意味の「覚悟」が生まれるのみであるという①寄りの帰結をしたい……。
つまりこうです。
人生「お前にまだ何か期待してるよ。なんだと思う?まあ答えはもう決まってるからお前が何を言っても関係ないんだけど……」
フランクルだって手記を読めば破茶滅茶な豪運で生き残っただけというのがわかる。まぁ「だけ」というのは言い過ぎだが、豪運9割・意志1割みたいな。そうね……意味への意志が1割を支配できるというのは否定しない。ただフランクルに限らないが、サバイバーというのは得てして事後確証バイアスを自分の思想と混合させている節がある。フランクルは強い意志を持っていたから生き残ったわけではなく、ガス室へのカーゴに載せられる選別を奇跡的に回避し続けただけだ。アンネだって隠れ家にいるうちはフランクルと同じことを書いている。
わたしは、どんな不幸のなかにも、つねに美しいものが残っているということを発見しました。
アンネ・フランク
しかし最後は収容所で心身衰弱しきって絶望の中チフスで死んだわけです。アンネは隠れ家が不幸の底だと思った。不幸の底を見たから美しさについて語れると思った。しかしそこは底ではなかった。地獄は際限なく続いている。意味への意志について謳えるのは完全なる絶望に堕ちるラインより手前で引き揚げられた奴だけだ。
……しかしこれはどんな意志を持つ人間も銃で撃ち抜けば死ぬと言っているようなものではないだろうか。極限に陥って、意志を考える余裕がある存在が、必ず意味を求めるというのなら、それは「意味への意志が本質」と言って差し支えないのでは?
なんだろうな……。本質を「意味への意志」としてしまうと、それが無敗であるような印象を与えませんか。でも無敗であるわけはないんですよ。どんなに強靭な意志も一定を超えたストレスを受けると挫かれるんです。それにひきかえ「快楽への意志」って、勝敗を定めていないというか……。ほか2つが拘束のための論理であるのに対して、快楽への意志って解放のための論理なんですよ。超克せねばならない、とか、人生に応答せねばならない、みたいな指示がない。「お前に選択権はない」という提示は、ある意味で最も解放的なのです。
サルトルの自由刑からの逃避であり、フロムが言うところの『自由からの逃走』だが……そもそも順序が逆転しているんですよね。自由とは希求して手に入れるべきもので、義務として与えられた自由を拒絶するのは逃走とは言えない。そもそもその闘いに参加することに合意した覚えはないですよ、という主張だから。
「自由」はもっとも強烈な縛りだ。だから「快楽への意志」は、人を操り人形とみなしながら実は最も縛りが緩いのです。操り人形であるという決定論的テーゼと、エゴ内で自由意志らしきものがあるという挙動が矛盾しているので、自由意志oidのあらゆる決定をProvidenceに委ねられる……。あれ?アドルフの論理じゃね?ままええわ。

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