250503
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https://www.youtube.com/watch?v=oa06g1aLkS8
どいつもこいつも強すぎます。
https://www.youtube.com/@%E3%81%82%E3%81%88%E3%82%8B-q7u
みなさーーーーーーん!! ここに本物の天才がいまーーーす!!
人のnoteを見ていると、とにかく誰も彼も著しく自意識に苛まれているということがよくわかる。認められたい、人が怖い、あるいは人が憎い、愛したい愛されたい、嫌われたくない、寂しい、◯◯(人名)になりたい、所属界隈が、承認欲求が、俺の人生が……。よくもここまで己について四六時中考えられるものだと思うが、人目から見た私もそう変わらないのだろうか? 感覚的には特に最近はほぼ自分事を考えていないのだが。
noteと明記したのは、これが個人ブログとかだと割と勝手が違うからだ。今日のご飯は何食べた、とか、MMO楽しい、とか、そういう、なんというか、自己とそこまで密接していない雑記ごとが多い印象。特に古いブログだとそう。
ただ、自分のことを考えないと、楽にはなるがコンテンツ性は下がる。だからインターネットというフィールドがそもそも「そういう人間」を生み出すようにできているのだろうとは思う。いわゆる一般社会に溶け込んでいる社会的に平常な人間は、承認欲求が無いわけではないが、「”インターネット”で承認されたい」という欲求がおそらく皆無なのだ。だからインターネットしぐさが身につかず、根本的に人生のビルドが違う。
私は少なくとも数年前と比べて一定の社会性を得て、絶対に楽にはなったが、コンテンツ性はやはり下がったのだろう。ファイティングスピリットというか、なにくそやってやるという気持ちが全くない。そんな人間は見ていてつまらない。ただ、楽だという事実だけははっきりとそこにある。つまり……

楽になる 戦い続ける
ってことでしょう。
「好きなことを一生懸命やっている人がかっこいい」という概念は、必然的に「気力がなく目標がない人間はかっこ悪い」というスティグマを生む。気づくべきは、かっこいいもかっこ悪いも、面白いもつまらないも、所詮は徹底して人目だということだ。己が感じるものではない。だからこそ、自分が進みたいと思う道を選択すればそれが正解なのです。周りによく思われても自分が苦しんでいては意味がない。

「周りによく思われても自分が苦しんでいては意味がない」みたいな考えはしばしば自分勝手とみなされるのだけど、ここにはかなり重要なニュアンスがある。わかりやすく言うと、例えば脱出ポットに5人だけが乗れる状況で、仲間は自分を含めて6人いるみたいな時、自分が降りて仲間を逃がすか、仲間の誰かを犠牲にして自分が乗り込むか、みたいなシチュエーションを考えてほしい。ここで先程の「周りによく思われても自分が苦しんでいては意味がない」を適用すると、仲間を蹴り落としてでも自分が脱出することが信念に沿った選択に見えるかもしれません。というか、大多数の人はそう思っているからこういう考え方を忌避するのだと思う。しかしそれは違うんですね。「自分が進みたいと思う道を選択する」ことが本質なのだから、もし仲間を心から想っていて、自分が犠牲になることで仲間が救われるなら本望だと思っているのならば、自分が降りることこそが「自分が最も苦しまない方法」なのです。だから「周りではなく自分の考えを優先する」というのは、あくまで行動のアルゴリズムであって、ある選択肢に対してどちらが選ばれるかはベースと成る人格によって全然変わるんです。
まあそれこそが自分勝手だと言われればそれまでなんだけど、自己中心的=他者を蹴落とし犠牲にする考え、というわけではまったくないということに気付いてほしい。自己中とか自分勝手って言葉には本来必然性がないはずのそういったニュアンスがほぼ強制的に内包されていることはずっと気になっている。
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