250202
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異常というのを一般の人間、マジョリティと違うという意味で定義したとき、 異常な人々に対して取れる手段は二つ存在する。 彼らの人生が幸福になるための方法、それは二つ。 一つは、耐え難い自己の喪失を伴って、通常に適合すること、つまりアダプテーションである。 もう一つは、適合することを諦めて、異常を受け入れてくれるコミュニティで生きていく。 社会は、この二つを恣意的に選択している。 つまり、その異常者が社会に対して駆け寄る損害に応じて選択している。 例えば、LGBTQは、それ自体に対して社会への損害というものが全くないあるいは少ないため、 彼らは彼らのコミュニティで生きることを許されている。 しかし例えば、人を殴らないと生きていけないとか、小さな子供しか愛せないというような異常を抱えた人間は、 社会にの選択を取ることを許されないため、社会が提供できる手段は一つであって、耐え難い自己の喪失とともに通常に適合すること。 しかしこの二つの境界は、時代によって移り変わっている。 さっき挙げたLGBTQは、過去は第一の選択、つまりアダプテーションを強制されていたし、 左利きに生まれた人間が右利きに強制されるということもあった。 時代の変遷としては、第二の選択、つまりアダプテーションを捨てたマイナーなコミュニティへの帰化が進んでいっているように見えるが、 それは時代を狭いスパンで見た時の話だ。 さっきLGBTQが差別されていたと言ったが、それはここ数百年を見た時の話であって、数千年まで遡れば、 同性愛が盛んだった時代は普通にあるわけで、古代ローマであったり。 つまり別に、どちらかの選択が時代が進むにつれて優位になっているというわけではなく、これはfluctuateしているのだ。
わたしが思うフィクションの魅力は、フィクションの世界では相手が誰であろうと常に第二の選択を提示してやれるということだね。
ぼくが絵を上げなくなった理由
絵をアップロードする理由って、ふたつしかないんですよ。
ひとつ、自己実現を果たしたい。
ふたつ、共有する喜びを持っている。
このどちらかに当てはまらなければアップロードする意味が皆無だから。
「絵で金が稼ぎたい」も広義の自己実現とします。つまり、物質的であれ精神的であれ、絵で「自己」へのなんらかのゲインを得ようとするということ。
ふたつ、共有する喜び。例えば、私は中原岬が好きですから、中原岬を「布教」する意味で描いたりするわけです。こんな中原岬がかわいいよね、みんなはどうですか? と問いかけるわけ。一見すると承認を求めているようだが違う。こっちのコアは「エゴの拡散」ではなく「情報の拡散」にあるから。つまり極端な話、「この中原岬かわいい!(マンガのコマを貼る)」でもいいわけです。ただ自分が思う一番かわいい中原岬のシチュエーションが現存していないとしたら、自分で描いて共有する……みたいな感じ。わかりますかねこのニュアンスの違い。
まあ、いいんですけど、わたくしが言いたいのは自分にはこのいずれの快楽も最早存在していないということです。
自分に「共有」の喜びがないということを、同人音声作品制作と新都社マンガ連載の二種を通して確信してしまった。自分の「いいな」に誰かが反応してくれても、別に嬉しくないっす。いや、ないというのは嘘なんだけど、どう考えてもペイが見合ってない。ドーナツ好きな人でもドーナツ1コ1億円とか言われたら絶対買わんでしょ。そういうこと。
こう書くとネガティブなことに見えるけど、実は共有を必要としないということの本質は「”このわたし”が良いと思えればそれでいい(それだけでいい)」ということですから、良いことなんですね。誰のエコーも必要としないの。中原岬のかわいい瞬間は、「このわたし」一人がそう思えているだけで十分満足なんです。ミソなのは、寡占状態であることに悦楽を見出しているわけではなく、共有できたら満足度は上がるには上がるんですよ。ただ、こと「絵」という媒体を自作しての拡散に関しては労力が絶対的に釣り合わない、ということ。
脳内物語は脳内だけにあればいい。共有できればそれなりに嬉しいかもしれないが、絵を描いて拡散するほどではない……。そういう「ほどではない」の積み重なりの結果、私は絵をアップロードする意義を失ったのです。
あれ? やっぱよくないのでは? 無気力なだけじゃねーか。

と言いつつ……
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