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早稲田大学の弱者男性祭みたいなのが炎上していてヒエヒエの実になってきた。何故わざわざ不名誉なラベルをアイデンティティにしてしまうのか。そうまでして所属したいですか、なにかに。したいんだろうな……。
弱者男性はその名の通り「僕たちは一番可哀想なのに誰からも顧みて貰えない真の弱者なんだ」というアイデンティティの持ち主である点が一番違うと思います。他のあらゆる弱者よりも自分の方がより弱いと主張する方が現代では意見が通ると解釈する、ニーチェの用語で言うなら権力意志を持つ弱者です。
https://x.com/hakoiribox/status/1603385876670824448
"""他のあらゆる弱者よりも自分の方がより弱いと主張する方が現代では意見が通る"""
ポリコレの本質やん。ライツとは弱い人間ほど強くなるゲーム。
西洋圏では案の定もう言語化されているらしい。→被害者意識のオリンピック
ライスに関連記事があるから読んでみた。
そして、「自己責任論」批判が盛んな現代では、本を読んでいたり議論が好きであったりする人たちの間では、「外側」にある原因を強調して個人の責任を問わない物言いが好まれるようになっている。
(…)
「自分のつらさの責任や原因は、自分の内側ではなく外側に存在する」と言ってもらえることで、ある種の安心や救いは与えられるかもしれない。しかし、「自分の外側に原因があるのだとすれば、自分がなにをどうがんばったところで、問題は解決できない」という考えも同時に浮かぶものだろう。したがって、他人や社会に対する敵意や怒りを抱いてしまうだけでなく、無力感も生じてしまうことになるのだ。
相変わらず議論の混乱がみられる。実に狡猾な用語のシフトが行われているのがわかるだろうか。これは構造さえ見えればかなりわかり易い例なので、ライスがよく使うレトリックの好例として取り上げたい。
まず、彼は「自己責任論」について語り、「個人の責任」という用語を使った。その後、「自分のつらさの責任や原因」という言葉を使った。最後に「自分の外側に原因があるのだとすれば、」という言葉を使った。
おわかりだろうか。「責任」という言葉が消滅し、はじめは存在しなかった「原因」に置換されている。しかし焦点はずっと「自己責任論」の是非の話にあるので、彼は「責任」と「原因」を等価の言葉として巧妙に置換したのだ。しかし当然責任と原因は等価の概念ではない。
つまり、「不幸の責任」について外側のみを糾弾し個人の責任を問わないことと、「不幸の原因」の一端が自分の中にもあるだろうという主張は両立する。ライスの論はその点を意図的にオミットしている。「自己責任論」を否定することは「自分がなにをどうがんばったところで、問題は解決できない」という帰結をまったく意味しない。責任がなくとも原因に取り組むことはできるのだ。消防隊は火を鎮火させるからこれは「火事の原因」に取り組む行為だが、消防隊に「火事の責任」はまったくない。
ライスの文章、ひとつの記事で「だろう」が14件ヒットするのだが、「だろう」に全体重を立脚させた論理発展を次々とさせていくので机上どころか雲上の空論になっていることが多い。もうちょいまともな論客はいないのか。
わたしは「能力主義」をはじめとする「覇権的な価値観」の正当性や自然さを一概には否定しない立場であるし、それに対抗して人工的に作られる「オルタナティヴでラディカルな価値観」とは結局のところ持続性がなく頼りのないものであると考えている。だから、「弱者の”弱さ”を肯定する」というタイプの主張よりも、「弱者であってもセルフヘルプによって”強さ”を身に付けられる」というタイプの主張の方が有効であると思うのだ。
これも然り。「弱者がセルフヘルプで強さを身につけることは、弱者の弱さを一概に否定する行為である」という隠れた前提がないと成立しない言論。当然そんなことはないし、弱者男性というラベルをアイデンティティ化している人こそがまさにそのセルフヘルプを行おうとしている人なのでないだろうか。つまり彼が本当に主張したかったのは「弱者の弱さを肯定する/弱者でもセルフヘルプで強くなれる」という話ではなく、「セルフヘルプの手段は能力主義的なものである方が尊い」というものであり、能力主義最高という感情が先にあるのを論理で整合性を保とうとするからこういうことになる。
もっとも「弱い」というラベルをアイデンティティにするというセルフヘルプの方法には私も懐疑的ではある。借り物のラベルに自分をmoldするのはやめたほうがいいと思いますね。
オックスフォード大学では2017年、視線を合わせないことをマイクロアグレッションとしていた。この同大学の規定に対し、視線を合わせることを苦手とする自閉症の人に対して無神経であるという批判がおき、大学は謝罪した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
ポリコレカードバトルきわまれりって感じだ。
マイクロアグレッション理論には破局視や感情的推論やマインドリーディングなどの認知の歪みを助長する効果があり、相手の言動から「無意識の偏見」や「侮辱」や「敵意」を読み取ってそれによって精神的ダメージを受けるように人々を誘導する。「些細な言動に対しても人は傷つき得る」というレトリックが普及することで、それまでは傷つかなかったような言動にも人々が傷つくようになっていく、という逆説的な事態が生じているのだ。
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2022/05/31/102458
そうだよ
逆もまた然りよな。だからわたしは25-08-29_090829|demandingなイデオロギーの普及を嫌い、tolerantなイデオロギーの普及を好む。ライスが云うように、社会を是正するよりは個人がコーピングする方が圧倒的に迅速かつ容易く、鋭敏になるより鈍感になる方がずっと実利的(pragmatic)なのだ。それはそれとして社会のせいにすることは大切である。ようするに「俺が貧乏なのは自分の能力不足のせいだ」という内向きな否定と「俺が貧乏なのは社会のシステムの欠陥のせいだ」という外向きの否定は、コリレーション的には対応するアクションに結びつきやすいにしても、必ずしもそうある必要はない。ゴミ拾いをする人間は「世界にゴミが溢れているのは俺のせいだ」なんて思っていないだろう。ゴミが散乱するのは社会のせいだが、それはそれとしてゴミ拾いという個人の行動で社会の「尻拭い」をすることは出来る。ライスは責任を外向きにすると個人が問題解決に一切取り組まなくなると思っているようだが、責任を外向きにしたうえで問題に取り組むという形がもっとも理想的だ。
なにより内向きの否定は「自己研鑽」か「自殺」にしか結びつき得ないという点でかなり危険だ。責任を外向きにしておけばとりあえず内向きよりは「自殺」を遠ざけることが出来る。代わりに「テロ」は近づくかも知れないが、いよいよとなった人間が誰にも迷惑をかけず自殺を選ぶ社会と可能な限りの人数を巻き込んで死のうとする社会なら、後者の方が少なくとも「自浄的」だと思っているし、私としてはそちらのほうが健全だと思う。
そんなわけなので上記記事は大半のパートには同意できなかった。ライスはゴリッゴリのストア派なので馬が合わないのは当然なのだが。
ソクラテス~ストア派までの哲学ですと、無知の知だ、イデアがどうだ、可能態がどうだ、情動を抑えるだとか、どこか人間の身体に大リーガー養成ギブスを嵌めて、「善き人生」に振り向けようとする矯正の姿勢が見て取れます。
(…)
「ギリシャ哲学の力み方はヤバいな」という印象になってしまうのです。そんなに必死になって、どこに行こうとしているの?という醒めた目線が私にはありますからね。
https://note.com/corchingcom/n/n6d7f733ad912
ホーントコレイトン。超克主義者は己の矮小であるのを認められないがために自分の人生を大義に移譲しすぎである。エピクロス派とストア派ならいっそストア派の方が「自分」を生きられていない気がする。ストアのマリオネットだ。
誰にも迷惑をかけないように誰もが必死で努める社会より、迷惑をかけることにはむしろ寛容的で、互いに迷惑をかけてもそれを許し合える社会を築く方が絶対に良いと思っているのだが、今の社会は真逆に行っている。どんどん厳格になっていく。血液型を聞くだけでマイクロアグレッションと言われる時代が来ている。
絶対に両立しないんですよ。マイクロアグレッション批判もそうだが、「誰も迷惑をかけないように」という形で危害を最小化しようとすると人々は温室育ちになってどんどんフラジャイルになる。「傷つくためのルール」を作ることで存在しなかった加害を生産しているだけなんちゃうかと思う。

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