25-08-29_090829
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不幸を不幸と感じないことは最大の不幸か、それとも最大の幸福か?
なぜわたしがdemandingなイデオロギーの普及を嫌い、tolerantなイデオロギーの普及を好むのか。
あらゆるイデオロギーは個人の中で収まる分にはもちろんよいのだが、まずこの前提が成立し得ないと思っている。
人は自分のイデオロギーと他者と関わる尺度を切り離せるようにできていない。そんなに高性能じゃないんです。
どれだけ気をつけていても、完璧主義者は無意識に自身の言動や他者との会話・アドバイスの中で完璧主義の片鱗をこぼすし、反出生主義者でも共産主義者でも同様になるだろう。
どれだけ気をつけていても、というのが核です。人生と比べればごく短いセッションで行われる人狼ゲームですら、嘘つきの人狼側の方が勝率が低いのだ。人狼側は全力で自身が人狼であるということを隠そうと言動の微細に気を配るのに、それはやはり片鱗によってバレるのだ。
「人は思想を切り離せない」の類似例でいうと、好きだった作品でも作者の性格が悪いと知ったら作品ごと嫌いになったりする。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというやつ。
この前提に立つと、特定のイデオロギーを持つ人がいた場合、その存在自体が布教活動であり、相反する思想を持つ人間にとっては侵略者である。少なくとも「何を信じようがおれの勝手だろう」というのは通らないということだ。すべての生存者は歴史の参加者であり、歴史を形作る彫刻刀なのだ。人とつながって生きていく以上、自己領分で済む勝手などありえない。
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