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UFO50という貰い物のゲームをやっているのだけど、この手のレトロライクなゲームは良いノスタルジアと悪いノスタルジアを混合しているものが多いなと思う。
良いノスタルジアというのは、ビビッドなピクセルアートやチップチューン風味の音楽といった外観面で、悪いノスタルジアというのは極端な説明不足、死にゲーに等しい高難易度、洗練されていないUI・UXなど。
UIに関しては境界線が曖昧な部分はあるものの、桜井政博の「ゲームにはヘルプをつけるべき」の動画からもわかるように、ゲーム史が培ってきたユーザーフレンドリーさを今この時代に放棄するような「レトロライク」は殆ど手抜きへの言い訳だと思う。
世のレトロ風味インディーゲーは全部VA-11 Hall-Aを見習って欲しい。グラフィックや音楽は完全に昔の雰囲気にバチっと寄せておきながら、UIや操作感は非常にユーザーフレンドリー。説明不足でもない。あのようにすべきなんですよ。
このゲームの場合、コンセプトが「1980年代に”本当に”作られた架空のゲーム集」という、非常にコンセプチュアルなものです。
そのため、開発チームは「もし本当に当時の開発者だったら、UIや難易度調整はどうなっていただろうか?」というシミュレーションの側面まで含めて、あえて当時の「洗練されていなさ」を再現している可能性があります。
(AIの弁護)
これは現実の奇跡は創作物の拙劣な展開を正当化しない――ご都合主義の回避と良質な虚構の構築にも近しい問題かもしれない。
起こりえないことは起こりえず、起こりうることは起こりうるという前提の下、現実では事実それ自体が出来事の正当性となる。荒唐無稽であるか蓋然的であるかは問題ではない。それは現に存在することにより、承認されるための試練を通過したのである。合格者にそれ以上の試験は必要ない。むしろ、実際に起こること以外に存在を証明する手段はないと言ってもよい。
虚構では事情が異なる。虚構には現実と異なり、起こりうることと起こりえないことの制限が存在しない。虚構の語り部があると言えば全ては存在し、ないと言えば全ては存在しない。現実ではどうあれ、祭司達がそう書き留めた以上、聖書の中に神は実在する。
しかし、虚構である以上、現実の事実とは異なり、その存在自体には何の証拠能力もない。それは承認されるための試験をまだ通過していないのである。それがあるということ或いはないということを人々に納得させるためには、証拠に代わるものを提示しなければならない。
https://zatsubun624.blog.fc2.com/blog-entry-320.html
80年代のゲームがあれで許されていたのは80年代だからであって、あれはあの時代なりにdoing their bestをした結果だから承認の試験を通過している。今80年代ごっこをするときに、「80年代だから不便です」というのは、フィクションでご都合主義が発生したときに「現実でも荒唐無稽なことは起こり得るからこれはむしろリアリティである」と言うようなもので、ほとんど通らないし通してはいけない気がする。
フィクションは現実の真似事しかできず、それゆえに承認の試験として伏線に裏打ちされた脚本が必要なのと同様に、80年代の真似事はどこまでいっても真似事にしかなり得ないのだから、「80年代だから」を理由にするのはかなりズルな気がする。
VA-11 Hall-Aだってそういう言い訳は出来たはずであって。でもしなかったわけで。なによりUFO50はキーコンフィグや言語設定や画面解像度などの設定画面がある時点で「80年代のUX」を徹底できているわけではない。そこまで排除して完璧に寄せたならともかく、こうちぐはぐだと説得力がないよなぁ。
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