240912
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
第9部、始動――。
思えば遠くまで来た。今回のテーマは医療です。エグゼイドか?
そして今まで徹底して避けてきた異世界転生要素やファンタジー要素を多分に含む。新たな試み、新たな世界が幕を開ける!
7部が確か3年前くらいに完結したんだけど、そこから8部始動までの壁が本当に厚くて、本当に辛かった。物語を書いては殺し、書いては殺し……。「8部のなり損ない」を踏み越えてここまできたのだ。彼には頑張ってもらわんとな……。8部のテーマソングは「芽吹く予感」なのでとてもダーク。
2022/1/25
あれから2年半ちょっとですか。8部始動が2022年1月だったんだ……。そう考えるとスケール的には7部よりでかかったか。8部はねぇ……結局……歴代最低にはならないだろうけど、最高にもならないな。22/1時点での評価が3部≧4部=7部>1部>6部>EX部>>2部≧5部らしいけど……3部≧4部=7部>1部≧8-4>8-5>6部>EX部>>2部≧8-1≧8-2>5部>8-3みたいな感じです体感。
米津玄師の「優しい人」、曲調は好きなんだけど歌詞は初聴の時からどうもストンと来なかった。改めてちゃんと分析すると……なんていうか、noteすぎる。インターネットすぎる。お気持ちすぎる。
なんていうのかなぁ。パッシブアグレッシブな自傷行為というか。ゲスな言い方をするけれども、(如是我聞)己の醜悪に酔って共感求めて被害者ぶってんなよ。
原宿さんが「(ARuFaのような)フォロワー100万の奴が『俺にハマれ』って、それもうハラスメントなのよ」って言ってたのを思い出す。発信力のある人間が、自傷行為のような形で謙ってお気持ちを発信するのってやはりもうハラスメントなのよ。
ここでの「優しくなりたい」の連呼って、難病で苦しんでる人を見て「羨ましい」って言ってるのとそうそう変わらんと思う。意図として自身を見下げるものがあったとしても、成立するような情緒じゃない。そこにリスペクトがないから。
うん……それだ。リスペクトがないんや。この歌でいえば、「優しい人」が抱えているであろう優しいが故の苦悩とか煩悶みたいなものをすべて無視して、優しい人の「きれいな部分」だけを羨み犠牲なく手に入れようとしているんです、POVは。それを私はリスペクトがないと感じたのだ。そのうえで徹底して破壊的自己陶酔には耽っているから、それはいつか彼自身が烈しく非難した「自意識の中から出てこない」人間そのものじゃないかと思う。
他人の善性を露悪と自意識の肥料に使おうとする、一番嫌いなタイプの人間だ。この一帯の論駁は願わくば米津玄師本人の目に届いて欲しいな。”今の”彼がこのあたりについてどう考えてるのか純粋に興味がある。ていうかストレイシープのインタビューとか見れば書いてあるのか。
前の段階では隙間のある言葉遣いというか、解釈に幅を持たせるような作り方をしていたんですけど、それが今の自分に当てはまらなくて。もしかすると、それをそのまま出すことによって、何かから目を背けるというか、ポップミュージシャンとして負うべき責任から逃避する結果になってしまうんじゃないかと思ったんです。それよりは直接的で鮮烈な形で表現したかった。
(中略)
そのことによって人を傷つける蓋を開いてしまう形になるかもしれない。でも結局のところ世に出す選択を取った。そもそも何かをすることは人を傷付けることだとか、そういう戒めを自分の中に持っておくのが責任なのかとか、いろいろなことを考えました。
米津玄師「STRAY SHEEP」インタビュー|3年かけて磨き上げた傷だらけの宝石 (3/4) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー (natalie.mu)
根津県って得てしてこういうところがあるよね。開き直り癖とも言うんでしょうかね。アグレッシブになることが責任を追うことだ、みたいな子供みたいな勘違いを未だに引きずっている。アカギ読めや!!
責任をとる道は身投げのような行為の中にはない 責任をとる道は. もっとずーっと地味で全うな道……
アカギ
もう消えちゃってるんだけど、ニコニコのブロマガみたいなのでこの辺について痛快な説明をしたものがあったはずなんですけどね。思い出せねえや。ようするにTu quoqueすんなみたいな話だったと思うが。
上の米津玄師が言ってることって、要するに俺は攻撃するからお前らも攻撃してきていいよ、みたいなのとほぼ変わらんのよね。それって裏を返せば「お前らが攻撃していい代わりに俺も攻撃したい」ってことであり。それをどう捏ねくり回したらポップ・ミュージシャンとしての負うべき責任って話になるのか理解に苦しむ。やはり開き直りきわまりない。何かをすることは人を傷付けることだと居直ることが責任を持つことなら、無敵の人は大責任者かい。
とはいえ別にこの一件でネヅケンを責めたいわけではない。よくパンピーが勘違いしてくれるんですけど、「歌詞」って散文とはまるで性質が違いますからね。言いたいことがそのまま言えるわけがねーだろ、メロディや音数や韻の凄まじい制約に雁字搦めにされてるのに。歌に合わせて捻っているうちに本懐とはまるで異なる形に収まってしまうことなんて、本当によくあることなんです。自分も何度もあるし。それにその頃合いになるともう何が自分の「本意」だったのかなんてわからなくなってくる。だから酩酊したまま完結する。酔いが冷めた頃にはやはり当時の情緒なんて記憶しているものではないし。
つまり……何が言いたいかと言うと……音楽を通してアーティストの心が知れるなんていうのは、少なくともアーティスト側の表層からすればちゃんちゃら成立しないものであって、でもそれでも音楽によってミキサーにかけられた当時の情緒や記憶や生のさまざまな断片は時に作った本人でさえ思いも寄らない形で深層の「わたし」を映すことはありえる、という……つまり操作がきかないものということです。本当はアーティストが自分の作品に対して責任を追う必要なんてないと思うけどね、そもそも。不可逆な情緒の排泄にすぎないのだから。
Comments ( 0 )
No comments yet.