240909
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2meirl
やりたいことをやらねばな。
私にとってそれが幸運だったのか不運だったのかは解らないが、少なくとも死の間際になって家族と別れるのが寂しいとか、友達[要出典]と別れるのが寂しいみたいな、既存の人間関係云々で後悔することはないと思う。理由としてはまずそもそも人間関係の数が少ないのと、やはり私は根本的に無感情というか、他人に頓着がない。
私は私の情緒の二面性について長年謎だったけど、最近になってようやくわかった。普通の人と決定的に違う部分がある。それは「近しい」ことによるボーナスが存在しないということ。その代わり基礎点は高いんです。これはどういうことか。
つまりね。一般人っていうのは親族とか友達とか恋人とか、親しい人の死には咽び泣き悲しみ哀悼に暮れるわけでしょう。その代わり、今現在アフリカで飢餓で死んでる子供とか、どこの馬の骨とも知れない成人男性の自殺とかは心底どうでもいいわけでしょう。私の場合、そういう「どこの馬の骨とも知れない他人」も、「親族・友達・恋人」といった近しい人間も、すべて平等の情感しか抱かないんだ。母や妹の死とアフリカの子供の死が等価に扱われるわけです。その代わり、さっきも言った通り基礎点が高く、一般人よりも「無関係の他人の死」に強く情緒を動かされる。一般人が親しい人に100の共感、他人に1の共感を配るとしたら、私は双方に20配ってるみたいなイメージと思って下さい。
このように言語化してようやく腑に落ちた。謎がひとつ解けました。養老先生が仰るところの「トゲ」が一つ抜けた。
死ぬとなっても「やりたいこと」と「やらなければいけないこと」が混合している気がする。
例えば連載中の漫画を完結させたいとか、アルバムを出したいとか、トカレフを完成させたいみたいなのは「やらなければいけないこと」に近い。やりたいことってそういうんじゃないんよなぁ。誰に期待されずともやりたいもののことをそう言うわけで。例えばN年後から神様がやってきて「お前トカレフ出しても全然ウケなくて2ダウンロードとかで終わるよ」って伝えられたら絶対作らんだろうし。逆にそういうどうreceiveされるとか無関係の領域のものこそが「やりたいこと」なはず。例えば「寿司をたらふく食べたい」とかは周囲の反応とかは関係ないから「やりたいこと」ですよね。
そういう意味で吾輩ののやりたいことってなんでしょうね。ある意味旧ブログ(別名義の方)がそういうライフワークではあったけど、あれももう終わってしまったし。音楽で人を救いたい?もう数人は救ったらしいし。絵を認められたい?数年前に書いたバケツリストの1000ブクマとかはもう何度も達成してる。これが10kに増えようが20kに増えようが大して意味はないでしょう。
男娼がしたい? イエスだ。もうそれしかない。ゆくた家みたいな身がちぎれるような激しい愛し合いの中で死にたい。それしかない。私がいよいよ死ぬとなったら誰か手伝ってくれませんか。アテは……ギリギリないこともないが……国外やなぁ……。まあ、死ぬとなったら財産持ってても意味ないし金払って来てもらえばいいか。
思えば私は彼に甘えすぎているなぁ。それでも。願わくば約束して欲しい。私が病に身を侵されていよいよ死ぬしかないとなったら激しく求めてくれと。いや、そんな状況でフルにアルファメイルになることはできないか。じゃあダメじゃん。彼がクズだったら良かったのにね。自殺しようとしている女を前に、死ぬくらいならその前に一発やらせてくれみたいなことを平然と言えるくらい無感情な男だったなら。色々とままならない。
別に私自身が癌を宣告されたわけでも余命宣告受けたわけでもないのに、ナイーブになりすぎている自覚はある。ただ来月手術っていうのはやっぱり精神的にしんどいし、体重減少が激しい(40kg代)のもどう考えても普通じゃない。よくてバセドウ病、悪くて癌。ここ最近ずっと体調は良くないし、色々振り返ると俄然長生きできる気はしない。
「私」が死にたくない、というのはどうも不思議だ。だってさ、例えば今の身体のまま死ぬか、脳をそのまま別の身体に移植して生きるか選べって言われたら、普通に後者を選ぶでしょう。「死にたくない」という信号を発するのは身体側のはずなのに、我々は身体のことなんざどうでもよくって脳さえ無事ならいいわけです。だから脳死が死として扱われるわけで。じゃあ例えば脳のニューロンの動きをデータ化して、意識をロボットとかにコピーできるならそれでもいいわけじゃないですか。こう言うとどこでもドア現象みたいな話になるけど、例えば全身麻酔でぐっすり眠らされてる間に諸々の措置が終わって、この「私」は死ぬけど意識は別の身体にコピーしてありますよってなるんなら、それはもう普通に全身麻酔で一般的な外科手術受けて起きるのと体感としては変わらないよね。その間意識はないわけだから。何が言いたいのかというと……死にたくないっていうのは実はFOMOと同じなんじゃないかという話。「この私」である必要性は意識上の連続性以外にはないんです。セーブデータを引き継いで、外界を観測さえ出来ればいい。これは生物の子孫繁栄を目指すという特性から考えればやっぱり畢竟奇妙な話だ。
意識がない状態って体感としての死と同じと言っていいよね。その先に「目覚める」という未来があってはじめて死と異なるわけで。さっきの全身麻酔の例でわかったけども。つまり死の本質的な恐怖は、死という始点ではなく生という終点がないことにある。やっぱりFOMOだなぁ。
死にたくない、という情感が、参加しなかった飲み会や旅行がどんな風だったかを知りたいという気持ちのラージスケール版でしかないと考えると、なんかどうでもいい気もするな。どうせ80年生きようが向こうの人類史の相当数はおそらく見逃すんだから。あと多分やっぱそんな変わんねぇよ。2000年前だって人間は人間だったわけで。人間を超える者になってない限りは歴史は基本的に繰り返す。人類がいうところの進化ってPS1がPS4になるみたいな進化でしかなくて、確かに技術的にはすごい進歩してるんでしょうけども、プレイ体験としてPS1の頃がPS4の頃より絶対的に劣っていたなんてことはまったくないわけで。PS4が現実世界になるみたいな次元を飛躍した進化は、ヒトがヒトである限りあり得ないと考えれば、なんかそこまでfearすることでもない気はする。今AI時代になって数年前じゃ考えられないことがいっぱいできるようになってるけど、それすら既に飽き気味だしな。終わり終わり。どこに生きたって何時に生きたって、何時間生きたってそんな変わんねぇや。なればこそ安楽死したい。
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