狂っているのは
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
狂っているのはおれだって
いや おまえにぞっこん
狂っているのは私でした。と、最近思う。
私は常々「人は変わる」と言い続けてきた。あるときは批判的に、あるときは諦念を込めて。しかし私が藍という名前で活動してきたうちの最も長い期間は、その事実を憎悪の対象として捕らえていたように思う。
例えば好きだったアーティストの音楽性が変わってしまった時。友達の趣味が変わって話が合わなくなった時。綺麗だったあの人が老いて見る影もなくなった時。人は変わり、それは往々にして我々の中に固定されていた「その人」というイデアを砕いていく。適応できなければ、対象は我々の頭の中では死にながら生きるゾンビと化す。
しかし今周りを見てみると、気づくのです。誰よりその「変化」にあてられているのは自分ではないかと。
私には十年近く関わりのある古い知り合い(≠友達)が何人かいる。変わったといえば変わった部分もあるのだろうが、同じ月日でより別人と貸しているのは自分だ。
例えば知人Aは昔ポケモンが好きだった。10年経ちいい年になった今でも彼は俄然ガチ対戦で遊んでいる。また彼の趣味であった絵も全く問題なく続いている、どころか10年前より勢いを増している。10年も老いているのに。
一方私はどうだ。10年前のブログの記述があるからどんな様子だったかは簡単にわかる。読み返すと完全に別人である。書いた記憶もなければ、文体にも内容にも同一性がまるで見られない。
あの頃の趣味は一つも残っていないし、趣味趣向もまるで違う。何より根本的な考え方が違う。
これらを形作るのは、いつからか私を蝕み始めた圧倒的な飽き性である。これは年々加速しており、ほんとうに、何事にも一瞬で飽きる。何にどれだけ感動しても一時のもの。一ヶ月も持たない。
それはつまり何物にも打ち込めないということである。私はやおらそれが無性につらくなってきた。
Comments ( 0 )
No comments yet.