愛などない
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君はそのようにものを考えるんだね……。(産屋敷)
「君はそのようにものを考えるんだね」としか言えない事態が増えてきた。ルワンダ虐殺のレヴェリアンの手記を見た時も似たようなことを思ったが、どうして自分の手がまったく汚れていないなんて思う事ができるんだろう? 私は不思議で仕方がない……。神に「義人はひとりもいない」と云われているのに。それとも手が汚れていても他の奴らの方が汚れているから相対的にマシと考えているのだろうか……それならまだわからないこともないが、いやしかし……とりわけ彼女のようなタイプの人間は本気で自分が清廉潔白だと信じ込めているとしか思えない。なにひとつ歪んだところのない、恥じ入ることのない、表現者であると信じ込めているとしか……。

わからない……どうしても……。
一生平行線ね。タチが悪いのはね……我々はおそらく「愛」の定義が違うのです。愛を守りたいという気持ちは互いに同じなのです。互いに「お前のそれは愛ではない」と言い続けているだけで。だから交わりようがない。

これを見るとややコンテキストが変わってくる。
「二次創作だし、」とは、つまり「汚れた手」の暗喩です。しかし彼女は「二次創作だからこそ」という逆説に変えた。これは過去のポストと総合して意味が汲み取れる。

愛ラトゥーン問題。
これは米国の美術品評会でMidjourneyの絵が優勝し、その後Midjourney製と発覚した途端にバッシングを受けたことと似ている。奴らは作品を食ってるんじゃない、愛を食ってるんだ。
しかし人は愛を見抜くことができない。絶対に。「この作品には愛がこもっている」という偽りの知覚しか得られず、それを担保するものは何も無い。
わかった、我々のズレはすべてここに由来するのだ。人の作る絵が好きだと謡う人々は、自分が「作品の中の愛」を見抜くことができると思っている。私はそういった概念を根本的に信じていない。愛は一方的な虚像だ。AI製だろうと人間製だろうと、ブラインドテストをされれば鑑賞者は無作為に「愛」という虚像を見出す。
こう感じるようになったのは、まさしく私が愛などこれっぽっちも込めていない自作品を多くの人に「愛を感じた!」と言われ続けてきたからです。私が作った作品に愛などない。ウディコンゲーに愛などない。アレンジ曲に愛などない。13年間つづけた小説にさえ愛などない。すべては計算と演出。嘘を吐く為の装置に過ぎない!(ゼロ)
もちろん、「あなたが愛などないと思っているだけで、実際はあなたもまた愛を込めているのだ」というような反論は出来なくもないでしょう。しかしこれは未知論証になってしまいます。少なくとも、私が愛を持たずに産んだ(と思っている)作品は人々に「愛」を感じさせた。これは錯誤だ。
つまり、hareko?氏?なり何なり、「自分は愛を込めて作品を作っている」と思えている方は、たまたま認知とフィードバックが一致しているだけで、実際は愛を込めようが込めまいが大衆は「愛を感じる」のです。人の創作であるというラベルがあればただそれだけで。ラベルさえあればいい。それが本当はAI製でも。
私は、皆がみな同じ大きな虚偽の中にいるのを感じ取った。誰も愛の真贋を見抜けないのなら、人であることをありがたがるのはブランドをありがたがる権威主義と一体何が違うのだろう。
もし、いいですか、もし本当に創作に愛なるものがあるのだとするならば……、それはウェブスター通り851番地のアパート3階にしか宿らないでしょう。
創作愛者たちよ、君は今際の際に言えるだろうか。「すべて捨ててくれ」と……。
本に値段があるなんて
ピカソ絵得が何百万だなんて
別れた女に慰謝料出すなんて
特許使用料だなんて
著作権使用料だなんて
詩を書いて稿料もらうなんて
なんてなんて未開な風習だろう!空気も海も天の川も
愛も思想も歌も詩も
女も子供も友人も
ほんとうに大事なものはみんな
只!
……のはずなのに
只, 谷川俊太郎
私は谷川俊太郎の詩に愛を感じることがある。(「やわらかいいのち」など)しかし、それは「私が勝手に感じているだけ」だ。間違っても「谷川俊太郎も自分の詩を愛していたに違いない」などとは思わない。
私がずっと抱いている違和とは、どうもさっきジブリの絵柄が云々言っていたような人達は、ここを切り分けず同じものとみなしているような気がするからだろう。つまり、「私が作品から作者の愛を感じたのなら、作者は作品を愛しているに違いない」というわけだ……。この接続さえなければ、我々は少なくとも形而上はわかりあえたと思うのだが。
- 「あなたが感じた愛は、あなたが一方的に感じた愛である」
という、愛の一方向性を、全人類に理解させる必要がありますね。すべての愛がそうであるとは言わないが、少なくとも創作における愛は繋がり得ないものなんです。何も担保がないんです。「中国語の部屋」なんです。我々は創作を通じて何も見抜けないんです。善意も悪意も愛も憎しみも。どうか皆さんにはその謙虚さを持って欲しい。べつに、存在しない愛を知覚するぶんにはいいんですよ。問題は逆よ。誰かが本当は愛を込めて作ったかもしれない作品を、ただ自分が愛を感じないというだけで「こいつの作品には愛がない」などと見下げる行為を正当化してしまわないで、ということ。愛の知覚が虚構であることを理解すれば、あなたが感じていないだけで本当は愛が籠もっている作品があるかもしれない……ということにも行き着くはずです。子供の落書きなら愛がこもっていることにはならないし、AIなら愛がないことにもならない。愛は不可知。愛に成れないものはない。
子供の落書きも、StableDiffusion製の絵も、私はどちらも愛しく思う。

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