創作の意義
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大仰な題目をつけたが、何のことはなく私の中で「創作」が如何に変化していったかを書き記すだけである。
こんなことを書こうと思ったきっかけはつい先日のこと。米津玄師の「KICK BACK」のカバー曲を投稿した後、YouTubeの広告収益がひと月にして相当な額に達していた。それを見た瞬間、私はなんだか一気にすべてが馬鹿らしくなってしまった。「虚業」という二文字だけが頭にこだました。
よく「創作において成果と満足度は比例するのか」という議題が上がることがある。答えは人それぞれあろうが、私の場合ははっきりと言える。比例しない。まったくもって。
10年前と今、成果や知名度だけで言うなら間違いなく今の方が高いのだろうが、満足度が上がったかというとむしろ劇的に下がっている。下手くそな絵や、イタいSSや、耳障りな音楽を創っていた頃の方がはるかに楽しかった。これは別に「成果・名声・技術力と満足度は反比例する」と言いたいのではない。私が創作が楽しくなくなったのはおそらくもっと別の理由だろう。ただ、成果/名声/技術力といったものは満足度に「まったく(あるいはごく微小にしか)寄与しない」ということは云える。この数年で私は創作でそこそこ稼いだが、一銭も稼げてなかった・むしろ全く稼ごうとしなかった昔の方がずっと楽しかったし満足していたのは間違いない。
では、創作の満足度に寄与するファクターとはなんだろうか。私はそこに「内発的かつ根源的な創作欲求」があるかどうかだと思う。
たとえば、日銭を稼ぐために創作をするのは内発的動機に即していない。「しなければならない」から創っているだけだ。たちが悪いことに、別段こうであっても作品のクオリティはあまり(もしくは全く)落ちない。寧ろコンスタントにものづくりができるぶん、上がっていくことも考えられる。つまり外部から見るぶんには全くもって結構なのだ。ただひとつ違うのは、作り手側に満足がないというだけのこと。
大人気漫画「SPY x FAMILY」の作者は、本来描きたいものは全く別のジャンルなのだけど、それを抑えて、好きでもない「売れる作品」を無理やり描いていると云う。それができることも一つの才能であることに違いはないが、やはりそこに満足はないのだろう。
「内発的かつ根源的な創作欲求」とは、外部の反応の影響を一切受けないところにある創作欲求だ。つまり、この世で自分以外誰一人見ていないとしてもまったく問題なく続けられる創作を指す。それは例えば子供の頃の自由帳の落書きであり、寝る前の妄想であり、インターネットを知らなかった頃のRPGツクール2000である。「自分による、自分のための創作」と言い換えてもよい。昔の私はこれを潤沢に持っていたが、今や枯渇寸前の状態にある。
この領域は、世界的にも年々縮小される傾向にある。今や何もかもを世界中に公開できる時代になった。また「創ったものは公開しなければ存在しないも同じ」という具合のイデオロギーも随分広がった。これらはすべて商業主義に即した考え方である。公益の損得勘定で考えれば、確かに外に出て来ないものは存在しないのと同義だ。
しかし、と私は時折思う。幼少期の落書きが、愚にもつかない冒険譚が、秩序もカタルシスもないようなドタバタ喜劇こそが、我々が筆をとるすべての始まりだったのではないのかと。
私が好きなパブロ・ピカソの言葉にこういうものがある。
子供は誰でも芸術家だ。 問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。
子供がみな芸術家なのは、彼らがおしなべて「内発的かつ根源的な創作欲求」を持っているからだ。彼らははじめ、そう、少なくとも一番最初にクレヨンを掴むその瞬間は、ただ「描きたい」という気持ちのみで臨み、ただ「楽しい」という思いのみで続ける。そして、いずれアインシュタインが云うところの「偏見のコレクション」によってそれは摩滅されていき、最後にはほとんどの人の中から消えてなくなる。
インターネットの登場で、「輝かしい人々」が有史以来類を見ないほどにハッキリと可視化されるようになった。それは人々に劣等感を与え、存在証明の発行を渇望するようになる。それを「楽しさ」や「満足度」に変換できる所まで行ける人はごく少数だろう。大半はそのまま押し潰されるか、道半ばで諦める。
しかし、と。輝きなら既にそこにあったのではないか。電子の海で視える光はごく一部でしかない。ここには映らない波長を持つ光だってある。我々が本当に必要なのは、存在証明の発行でもなく、その印の大量の数値でもなく、ただ「輝きを思い出す」ことではないのか。失われたのでも持っていないのでもなく、視えていないだけなのではないか。
とはいえ、口で言うのは簡単だが実際には一朝一夕でどうにかなる問題ではない。それほど現代人の劣等感は根深い。「評価されなければ意味がない」という価値観がすでにイレヴォカブルなほど浸透してしまった。こうなるとその先に光が在ると信じるしかないのだが、おそらくは、ない。文字通り80億人すべてを倒さない限り、どこまで上り詰めても常に上がいる。階数が変わるだけで、その「上」に劣等感を抱くという構造は永久に変わらない。ならば考え方そのものを変えなければ、満足には至らない。
創作の意義を考えるとき、画家のボブ・ロスの言葉を思い出す。
If what you’re doing doesn’t make you happy, you’re doing the wrong thing.
(あなたが今やっていることがあなたを幸せにしないなら、間違ったことをしている。)
「内発的かつ根源的な創作欲求」は、その名の通り自分の中で呼び起こすしかない。結局一番よいのは、「創りたいときに創る」を徹底することなのだろう。それができないのは、「創らなければ自分は価値がない」「創らなければ見捨てられる」という恐怖感に打ち勝てないからだ。ゆえに、帰納法的ではあるが、この恐怖を払拭できる何か(≒内側からの自己肯定感)を見つけることが結果的に「内発的かつ根源的な創作欲求」の健康的な保持につながるだろう。
心理学的にいえば、「Parent’s Unconditional Love(両親からの無条件の愛)」を幼少期に充分に受けていることが重要なファクターとなるが、残念ながら私はそれを受けていないので別のコーピング手段を画策する必要がある。目下は神を信じるのが最も堅い気がしている。
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