信じられない
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
今年の目標:抜歯?
近くの歯科に電話する→自転車で歯科に向かう→抜歯術のため大きな病院への紹介状を書いてもらう→かえる→大きな病院に電話する→自転車→電車→バス→大きな病院→静脈麻酔のための検査とかCTとかやって帰される→バス→電車→自転車→数日後→自転車→電車→バス→大きな病院→手術→入院→バス→電車→自転車→痛み止めなどの薬を服用→数週間後→近くの歯科に自転車で向かう→抜糸→かえる
これを普段フルタイムで働いてる中のどっかにねじこまないといけない
[[26-01-15 11:19]]
近くの歯科に電話する→自転車で歯科に向かう→抜歯術のため大きな病院への紹介状を書いてもらう→かえる→大きな病院に電話する←イマココ!
俺偉いやろ(カーリー)
それにしてもなぜこんなにも創作ができなくなったのか。
根本的な問題は、もはや絵もDTMもまるで”楽しくない”ということにある。この”楽しくなさ”を抱えてまでやる目的がすべてなくなってしまった。
なぜ私はウル冒のようなゲームを出したのか?面白そうなアイデアが浮かび、かつ実現のためのコストが低いと見積もり、それが誰かの気分を明るくしてくれるものと信じていたからです。
その予想はある程度当たった。当たったからこそ、袋小路になった。
つまり、創作を楽しむためには、創作を通して誰かの気分を少しでも明るくすることがいかなる労苦にも代え難いほど価値があることであると信じなければならないのです。
自分が抱えている問題を解決できるという期待を持って音楽を作るのではなく、音楽が僕の心を動かすのと同じように、僕の誠実な表現が誰かの心を動かせるという希望を持って、作るべきだと気づいたんだ。
Porter Robinson
いま、私はそれを信じられる気持ちが欠けている。タチが悪いのは、「僕の誠実な表現が誰かの心を動かせる」ことが信じられないんじゃないんです。「動かせることの価値」を信じられない。
すべてが爆速で消費される世の中で、誰かのほんの一瞬を満たすために支払える労力が、私にとっては限定的すぎる。「割に合う」ようにするためには、30秒ドローイングレベルがせいぜい。
動かしてどうなるんだ?何が変わる?逆の立場で考えるべきか。もし谷川俊太郎がこの世界にいなければ……。しかし考えても見てください。今の私は谷川俊太郎を知っているから、もちろん彼が居ない世界を虚しく悲しく思うだろうが、「彼が居ない」ことさえ知覚できない、はじめから谷川俊太郎なき世界だったならば、私はもはや「悲しい」と思うことすらないのです。私は別の行為に満足を見出すだろう。べつにcontentmentは変わらない。改善すらするかもしれない。
then again, 「私がいない世界」には戻れない。私は知覚されているのだ。私が今から消えるなら、それはLeiAAA25が消えたのと同じ悲しみを生む。しかし……そんな防御的なやり方で創作をしても意味がない……。
プライベートな創作は妄想で完結してしまう。思えば妄想を具現化する最もコストが低いショートカットが落書き帳だったのだ。iPadが紙のコストを軽減してくれるものと思って買ったのにてんでダメでしたね。iPadを買ってから全部ダメになったまである。Apple pencilや本体の充電という制限や、そもそも書き始めるのに本体起動→お絵かきアプリ立ち上げ→書いたら保存……みたいな踏む手間が多すぎて、これらすべてが妄想を形にするまでの障害になってる。機能性より即効性のあるデバイスを持つべきだったのだ。つまり結局アナログに回帰すべし。
英語交じりのルー大柴みたいな喋り方、南ジャカルタではよくあるらしい。Bahasa Jakselって言うんですけど、メチャクチャですよマジで。jujurlyとかいう正直ベース。
ManglishとかSinglishもあるし、もう言語のモノポリー性みたいなの自体が崩れ始めているのかもしれませんね。
興味あるね
なんちゅう選曲してんねん。素晴らしい。これぞ求めてた歌ってみた。
→2018年以降活動なし
何度漏れを苦しめれば気が済むんですか、この世界ゎ。てか、2017年で16歳って、もしかしてタメか?……全然違った。
クサヴァーさん……俺は……ずっとれいあやうるふの歌ってみたを聴いてるだけでよかったよ……。
興味あるね
そうですか
共感してほしいとか、理解してほしいとか、同情してほしいとか、そういった気持ちが僕にはまったくなくて。誰かに何かを伝えたいわけではないんですよ。僕がリリックを書く中で一番大切していることは、自分の人生を映し取ることで。音楽って、自分が死んでしまったときに遺るものだと思うんです。だから、僕がどういう人生を歩んできたかを遺しておきたいんですよね。
……。
wowakaもそんなこと言ってた気がするな。しかし彼は「ひとりきりで始めたお遊戯もそろそろ飽きが来る頃」ということにも気づいてしまいました。
インタビュー内容を見ていると、「自分が今まで持ってきた感情はどこかで必ず捨てなきゃいけない」ということにはやはり20代後半~30代前半あたりで誰もが気付くことなのかもね。自分が死んでしまうという現象は生きながらにして起きるのかも知れない。故に音楽に遺すと、そういう考え方もあるか。
それならもう十分残したしな。私には日記もあるし……。
逆に、なぜ創作を捨てられないのかを考えるべきなのか。理由が一つもないのなら疾うの昔に捨てれば良い。何が私を繋ぎ止めているのか。わたしたちが創作からなにを期待するかではなく、むしろひたすら、創作がわたしたちからなにを期待しているかが問題説。


記事の感想を伝えられます。
感想レターを書く
定型文を選択
スタンプを選択