レッスン2
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わたしは常々「赦すことは偉大なことだ」と説き続けてきました。
しかし全ての法は万能ではありません。それは赦しにおいても同じことです。わたしに最初にそのことを教えてくれたのは2010年放送『はなまる幼稚園』の10話でした。
運動が苦手な小梅という幼稚園生が、運動会のかけっこで優勝するために特訓するというお話です。厳しい特訓を乗り越え、その成果あっていざ本番のかけっこで彼女はトップに躍り出る。「ほんとうにメダルがもらえるかも」という希望に小梅の胸は満たされるのだけど、それが慢心を生んだのか、足がもつれて転んでしまう。一気にビリになってしまう小梅。それでも彼女は立ち上がってなんとか走り続けるも、トップとの距離はもはや縮まるものではなく。
けっきょく最後に残った彼女がさらし者のようにして走り続ける。小梅はぽろぽろと泣き始める。それを見た観客の大人たちの中から声が漏れ始める。「がんばれ!」「あと少しだよ!」次々に応援の声が溢れ、拍手が響く。
ふつうのアニメなら、これを美談にしたかも知れません。しかし小梅が惨めさに泣きながら歩く姿を見て、彼女の友達の幼稚園生がこう叫ぶのです。
「ダメ!拍手しちゃダメ!」
15年前に一度観ただけのアニメなのに今でも覚えています。痺れたね。これがわたしにとって最初のレッスン2でした。
形式じみた同情や赦しは侮辱であり、ときに人を深く傷つける。その昏い真実の先駆けとなる燐光でした。
もうひとつ良い例があります。赦しの象徴といえば誰でしょうか?そう、ディーニュのミリエル司教ですね。ヴァルジャンの罪を赦して銀の燭台を捧げた聖人です。
しかし赦しとは同時に苛烈でもあるのです。ヴァルジャンが更生してマドレーヌ市長となった時、ヴァルジャンが最も苦しんだのは司教の幻影である。
シャン=マティユーを救うために自白するや否や夜通し悩む場面。彼は一度こう思う。「この街全体の市民の暮らしと、取るに足らない罪人ひとりの人生を天秤にかけるのか?馬鹿げている。」それは事実そうなのだろう。モントルイユの市民は彼を必要としており、またほとんどの人間はそうして彼を赦すだろう。数十年前の過去の罪ひとつのために人生を犠牲にする決断を強制される者はそういまい。
もういいじゃないか。ここまでよく頑張った。
さあ帰るといい。お前を慕う人々と、お前のみを頼りとしている、哀れな女がいるお前の街へ。
ヴァルジャンはそのことを重々承知していた。だから一度はヴァルジャンという名を捨ててマドレーヌとして生きようと思った。それを押し留めたのが銀の燭台であり、司教の幻影なのです。
つまりヴァルジャンはこう思ったわけだ。「他の誰が赦しても、司教だけは赦さないだろう」と。これって、すごく深い話だと思いませんか。彼は窃盗の咎において「他の誰が赦さずとも、司教だけは赦してくれた」がために救われたのに。
この点はきわめて見過ごされやすい重大な要素です。これを知らずして赦しについて語ることは出来ない。そも、ミリエル司教は燭台を渡すときにこうも言っている。
「忘れてはいけない。けっして忘れないで。あなたは変わると、これらの銀器を正しく使うために変わると約束したことを。わたしはこれらの銀器を代償に、あなたの魂を暗い深遠から引き上げ、それを神に捧げた。」
司教は「窃盗をしてもよい」とか「盗んでもよい」といったわけでは決して無い。むしろその反対のメッセージを伝えた。その意味で、ヴァルジャンの窃盗は「許されて」などいない。彼は代わりにもっと大きな「永劫の責任」を負わせたのです。
赦しの真なる性質はここにあるのだ。赦しとは、過去を水に流すことではない。より善く生きる責任を未来永劫にわたって背負わせることでもある。
ミリエル司教が灯した二本の燭台の光は、ヴァルジャンの行く末を照らす希望の光であると同時に、彼の魂から決して目を逸らさない、厳しくも神聖な監視の光でもあったわけです。
レッスン2の最後のピースは、シャーリーの言葉の逆説です。
「許せないことなんてないよ。それはきっと、スザク君が許さないだけ。許したくないの」
シャーリー・フェネット
これは裏を返せば、許しとは「許したい」という心ひとつで行われるものであるということでもある。世界に許すべくものなどなく、許したいがために許す。
赦しとはさまざまな世界で行われる。それはときに同調圧力であったり、恐怖政治であったり、メサイアコンプレックスであったりする。
しかしほんとうに心からいでたる赦し以外に意味があるだろうか? それに応えるには、心からいでたる赦しとは何か、ということを考えなければならない。
まず言えるのは、赦しは本来「手痛い自損」を伴うということです。呪いに近いんですよ。銀器という大切なもの(これは司教にとって唯一大切に使っていたもので、金目のものといえばこれしかなかった)を捧げて、ヴァルジャンに永劫の契約を負わせたように。手痛い自損を伴わぬ赦し(例:はなまる幼稚園)は軽薄でありポーズである。これはときにナイフとなる。
赦しを信じても、酔ってはいけない。そしてその苛烈さに自覚的でなければならない。赦しは銀の弾丸ではないのだ。一般的には人を裁くことに気持ちよさを覚える人が多いが、「気持ちいいから」という理由のみで人を赦すのであればそれは性癖が逆転しているだけで彼らと同じけだものです。赦しとは主観においてさえ最も困難な道でなければならない。それがもっとも楽な道へ変わっているのなら、一度その赦しが小梅への拍手になっていないか自問するべきでしょう。
本日の講義は以上です。ではレッスン3でお会いしましょう。
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