ひとひらの救いを
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
中2女子の拙すぎる英語のECHO歌ってみたが早く聴きたい
なぜ政治に関心を持つと人間はああなるのかと考えたが、おそらく「正義」に囚われるからでしょうね。正義は危険だ。この世界でもっとも危険なものだ。正義を為さねばならないと思った時、人は人間性を捨て去り構造へと羽化する。
正義は感情ではなく規範ということになってるから、to each his ownみたいな避け方が通用せず常に強制力を持つ上に、パーソナルでないと定義することで際限なく「正義を為さねばならない」範囲が拡大していく。こんなに危険なものはない。正義に囚われそうになったら思い出してください。「広く諦めて、狭く誠実に」。
政治家になって1億人を救ったが目の前で困っている少女を無視した男より、政治家になれずとも目の前の少女に手を差し伸べた人間の方が偉いという強い意志を持って生きていく。
エログロが苦手な人がいる。それはいいのだが、「エログロが苦手である」を基盤とした拒絶フレームワークがどこまで過激化しても許されるみたいな感じになっているのに違和感がある。
「月曜日のたわわ」の全面広告の炎上とかがわかりやすいかな。「私はエロが苦手なので、◯◯しないでください」の「◯◯」がどこまで広範囲をとってもいいという感覚。
違和感は、なぜエログロだけそうなのか?ということなんですよね。例えば「エロ広告が不快だから取り下げろ」はよくて、「ドラえもんが不快だから取り下げろ」はダメなわけです。それって結局「不快がポピュラーかどうか」じゃない?不快に思う人間の母数が比較的多いコンテンツには、比較的強大な拒絶権が与えられるってことじゃない?でもさ、不快指数自体はポピュラリティとは関係ないわけよ。たとえばエロが「ちょっとだけ苦手」な人間が100万人いたら100万拒絶権が付与されるとしよう。ところが「ドラえもんが死ぬほど苦手」な人間が10人いても10拒絶権しか与えられないわけ。私がどれだけ百合が嫌いだと言っても世は百合作品と百合の話で溢れかえるように。
人生における不快さの個々の深刻度が考慮されない。というか、考慮しようがないというのが本音だとは思いますが。ここでも功利主義よ。狭く諦めて広く誠実に。広い側にいた人間にとってはそれでいいだろうが、狭い側にいた人間にとってはたまったもんじゃない。なにひとつの平等さもありはしない。
どんな社会にも必ず正と負の側面がある。よりよい社会とは、このうち正の部分がどれだけ大きいかということに過ぎない。
社会をサイコロとするのであれば、強者とは当たりの面を引いたものに過ぎず、弱者とはハズレの面を引いただけだとも言える。
1から5まで正の面だとしても、6一つが負の面だとすれば必ず負を引くものが六人に一人はいる。
それでも多くの人が幸せであるのなら、社会はこのハズレの面を無視してしまう。
極道が許せないのはこの無視という行為なのだ。
https://note.com/ten7miduki/n/nb00810226ed4?magazine_key=m58dcc254c136
6を引いた人間を社会は救わない、あるいはきわめて遅滞にしか救うプロセスを進めない(緊急性がない事案として処理される)。だが実際には6を引いた当事者にとってはそれはきわめて緊急なのだ。そのため、此れを緊急に救うためには社会の理の外に飛び出すしかない。私は其れを愛と呼ぶんだぜ。
→アルトマン邸に火炎瓶投げつけ完了
↑確かに……。この理論でいくと反AIはその完璧な実行者ということになってまう。そうなるとホッブズ状態だが。まあ、実際そうなんじゃないすか。いっそ居てよかったのかもね。この手の抵抗は結果はほとんど関係ないから。何故負け戦に躍起になるのかと思っていたが、戦うこと自体に意味があるんでしょう、彼らにとっては。その先にあるのが敗北だと決まっていたとしても。だとしたら勝利が約束されている側の我々は、それくらい許してやりましょう。それだけが「AIが死ぬほど苦手」な人々に我々が出来る償いであるのなら。報われぬならせめて、悔いのない終わりを。
記事の感想を伝えられます。
感想レターを書く
定型文を選択
スタンプを選択