だいじ誠実であること
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
今の百合作品の(残念ながら)メイン顧客となってしまっている人たちのなかには、自分がしたくてもできない現実の恋愛から逃げるために百合作品を手段として利用している層が少なからずいるのではないかと推測する。
(…)「逃避のための百合」はやめた方がいいと強く勧めておく。そんな歪な接し方で百合を深く楽しめるとは思えないし、その人の根源的な悩みは現実世界で行動することでしか解消されないからだ。
https://note.com/nice_impala253/n/n6b070ba661fc
え……えらいことや……戦争じゃ……。
私の百合嫌いは有名ですが、この人の二元論とはちょいズレてるかも。前書いたこれがすべてです。
私にとって百合は、DRAの茜とあやめとか、lainの玲音とありすみたいに、老若男女入り交じる喧騒の中で掴み取られたものであって欲しくて、女しかいない作品みたいなはじめから百合のためだけに作られた箱庭の中の関係ってすごく空虚に見える。
[[25-08-21_092154]]
もっとも、この記事で語ったまのさばに関しては、少なくとも今のところはこういったロマンティックな意味での百合性を推している作品ではないので、結果的には的外れな批評でしたが。
逆にガワさえ百合っぽくすれば百合好きを釣れるという意味で、徹頭徹尾ドライに商業的成功を狙いに行ったとも言えるかも知れない。なりふりかまわないインディーズは無敵だ。ダンロンのモロパクリシステムといい、限度というものを知らない……。そういった批判を、まのさばは、良く言えば「面白さで捻じ伏せる」事ができ、悪く言うとmight is right的な思想に駆られている。
娯楽の世界に美徳などなく、面白ければすべてが肯定されるというのは何度も語っているテーマです。これは今のisであって、oughtではないけど。
結局世界は情緒主義で回っているというリアリティ(谷川俊太郎文脈)がある。さっきの記事の人もいろいろ理屈を捏ねてますが、「気に食わない」んですよね。性根が。
「見ていて自分を不快にさせる男キャラ」が出て来ないから百合作品が好き、そんなネガティブな理由で楽しんでいると、百合作品が可哀想だと私は思う。
https://note.com/nice_impala253/n/n6b070ba661fc
「百合作品が可哀想」みたいなレトリック。お前が不快なだけだろと思う。そしてこれは私がよく使ってしまうレトリックでもあります。そういった不誠実さに陥らないために、できるだけ「気に食わない」と直接的に言うようにしているけど。
その点では、やはりいつかのツイッタラーの↓これは誠実だった。
Twitterでどんだけ喚いても、キモいものは、キモい!差別したいものはしたい!
2020/06/07 11:33:52
情緒主義が正しいのであれば、あらゆる言論は源流を辿っていけばこういう情緒に行き着くことになる。それを言葉を弄して装飾し「建設的な対話」などというラベルを貼って安心することが、はたして人間的な試みなのでしょうか……。
[!NOTE]
「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗、冷汗」
と言って笑っただけでした。
けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。太宰治「人間失格」より抜粋
自分はカント主義とは相性が悪いと思っていたのだけど、偽善や不誠実さを最大の悪徳とみなす立場においては親和性があるかもしれない。というより、多分本当は誰もが不誠実さを最大の悪徳と考えているんです、少なくとも他人事においてはね。前も言ったけど、ビリー・ザ・キッドなら良くて滝沢ガレソならダメな世界ですから。社会は功利主義(結果主義)で動こうとするんだけど、人の性根は今も昔も義務論(意図主義)的であり、矛盾してるということです。
こうみると欧米でトランスヒューマニズムが台頭する理由がわかるよな。実際にそうなってるプログラムを「駄目なもんは駄目!」という倫理で抑圧するのはアドホックすぎるし不安定だし。でもこれって超人と言いつつむしろ退人なんじゃないか?ヒトが社会に隷属することを選択するということですから。まぁ既に人間社会というフィクションがヒトというリアリティに対して優位になろうとしているわけだけど。社会とヒトの本能の相性が悪い時、「ヒトが社会に合わせろ」としている点においてはトランスヒューマニズムも倫理も変わらない。そして私はどっちも”気に食わない”のでした……。
社会擁護者の主張は、「理性という虚構」の力を借りなければ我々は共有できる土台を失い、社会がやっていけなくなる、ということなんだけど、私は「なんでやっていかなくちゃならないの?」と思う訳です。なんでリアリティに反する虚構を作ってまで「社会」を維持していかなくちゃいけないのか。この段になると納得出来る回答をもらえないんですよね。「やっていかなくちゃダメったらダメなの!」みたいな循環論法しか出てこない。社会も、国家も、お金も、まあ長年の嘘としては中々荘厳だけど、壊したっていいじゃんね。何もヒト属という種ごと絶える訳じゃあるまいし。300万年のほとんどの間は、こんな虚構なしにやってきたんだから。理性が不要な社会(=動物の世界の社会)というものもあるから、それならリアリティに即して生きていけるじゃん。なにより今築き上げられた巨大な虚構は、人類数百万年の歴史と比較して長続きするとは思えない。比較することさえばかばかしいくらいに。むこう1000年続けば保ったほうでしょう。
あたかもアナーキズムや非理性主義が危険なように言われるんだけど、社会を発展させた結果、地球全体を何度も核の炎に包める量の爆弾を生み出した今のほうがよほど危険だろと思う。……エレメンタリーな論法すぎて自分で言っててあまり気に食わないけど。文明の発展で局所的には種として爆発的に生息数を増やしたのは間違いないから。ただ現状はやっぱ相当「局所的」だよな。数十年後にはもう下降に向かうことがわかってるし。
まあ、100年後を生きない我々にとっては知ったこっちゃないっちゃ知ったこっちゃないんですけどね……。「知ったこっちゃない」っていうのも然し気に食わない。それを気に食わないと思えることを善性のリアリティと呼んでみてはどうでしょうか。
記事の感想を伝えられます。
感想レターを書く
定型文を選択
スタンプを選択