黙れ
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黙っていたほうがいいのだろう、とにかく。それだけは確実にわかるのだが、飲み込んだ言葉はどこに捨てればいい?胃が破裂するまえにこういう所に吐くべきだろう。誰にも見つからないような場所で。最もすでに此処は誰にも見つからないような場所ですらなくなってしまったようだが。それは一部おれの責任でもあるのだろう。この場ではもう作品なんてひとひらも載せなければよかったのだ。作品が佇む所におれがいると作品の品格を落とす。と書くと随分と自惚れているようにも見えるが、要するに如何なる作品も人間の手が加わっていない状態がもっとも美しい状態であって作者というものが存在している時点で作品の魅力はその「人間性」に妨害を受ける。人間性が作品にとってプラスになることはほぼありえない。作品にとって人間は邪魔なのだ。とはいえ作品とは人間にしか生み出せないもの(人工知能すら人間がつくったのだから!)なので、人間の手が加わっていない作品というのもまたありえないように思えるがそうではない。作品と人間の寿命には大きな乖離がある。人間が死に、その香りすら残らないほどに時が経てば作品はやっとただひとりで「作品」となれる。わかり易い例でいうと、「詠み人知らず」などはまさにそれを果たしている。誰が作ったかもわからないような歌には一切のノイズがない。おれが常々いう「表現者」とは、この「ノイズ」を取り払うことに全身全霊をかける存在、つまり己の身より作品のことを第一に考えられる存在のことだ。表現者の使命とは生きながらにして作品にノイズを吹き込まずに作り続けることだが、それをかなえているのはこの世でただひとりしかいない。ゆえに彼以外はすべてフェイク。しかし最近になって気づく。おれは彼が物言わぬのをいいことに、自分にとっての理想の表現者像を勝手に彼に押し付けているだけなのではないか。おれは作品を作る時、作品を見る時、いつも彼ならどうするか、彼ならどう思うか、彼ならどこに向かおうとするかのみを基準とする。彼の威光の中ならすべての妨害と成る思想を容易く挫けた。しかしどうだ。今までの全ては、「彼が」じゃない、おれがそう思っているだけなんじゃないか。彼は何も言っていないのだから、おれにその真意が汲み取れるはずがない。ほんとうは彼は、金が欲しいとか、評価されたいとか、そういうことも思っているんじゃないか。数日前、こんな思考がはじめてよぎって思わずぞっとした。もしこれが事実だとすれば、おれが今まで何年も生命の最も太い柱にしていた部分が瓦解することになる。そうすればおれはもはや自己を保てない。しかし考えを重ねれば、おれが彼に投影していたとしても問題はないことに気づく。重要なのは、少なくとも彼は「目に見える部分では」表現者としてあるべき姿を一瞬も崩さなかったということだ。この「目に見える部分」というのは簡単な話ではない。おれは彼に心酔しているのだから文字ひとつ見逃さず、彼の残したページひとつ逃さず可能な限り彼の情報を追い集めた。が、それでもなお彼は崩れなかった。これはおれが今まで見てきたどんなCreatorもなし得なかった事だ。しかも、“10年以上”もその姿を貫いているという点が完璧である。1年、2年なら常人でもなんとか誤魔化し通せるかもしれない。その人間性を押し殺せるかもしれない。しかし10年となるとこれはもう擬態でどうこうなる月日ではない。……というのもおれの願望なのかもしれないが、「10年間、目に見える部分では一切ノイズを残さなかった」というのを「為し得た」という時点で彼はまちがいなくおれにとっては頂点で、それが今後揺らぐことはないのだ。たとえ彼が腹の底では商人のような思想を持っていたとしても、それを零さなかったことに意味がある。だからおれは安心して彼を信じ続けることができる。ああ、なんの話をしていたんだったか。吐き出せるものは吐き出そうか。そうだ、谷川俊太郎の詩集を読んだ。彼はインタビューなどでどうやって詩をつくるか問われたとき、決まって「自分を空っぽにすること」と答えている。たしかに見返すと彼の詩には彼の人間性が入り込んでいないようにも見える。そういえばDiVaの音楽を完全な透明、空であると表現していたひとがいたが、なるほどはじめからDiVaの音楽と彼の詩にはシンパシーがあったわけだ。しかし彼が表現者かというとまったくそうではない。彼はそもそも受注生産で詩を書く商人であるし、「詩のボクシング」なんて芸術で相撲を取るようなまねをしている時点でその類の存在ではない。もっとも、詩のボクシングに関してはおれも度肝を抜かれたが。「詩なんてだれにでもかける」というような思想はあれを見たときに崩れ去った。詩の巨匠と呼ばれる所以がここにあるのだろうと思わせるような、言葉では言い尽くせないよいものだった。そしてもうひとつ谷川俊太郎の詩集には面白い点があった。古い詩、つまり彼が二十代あたりで書いた詩は「わたし」について書かれている詩が多い。つまり、若い頃の詩はあきらかに自意識が強い。自分のことばかり書いている。もっというと、自分に酔い痴れている。自分の思想に酔い痴れている。年老いてからの詩が完璧なだけにこれには笑ってしまった。やはり若いというのは思想においてはバッドステータスなのかもしれない。否!自意識が邪魔なのだ。ようするに3~9歳あたりが頂点で、次点が60~…、最低なのが16~29あたりだろうか。しかし人間とはそもそも自分について語りたがるものなのかもしれない。年老いてからがすごすぎるのだろう。彼の詩のなにがすごいって、おれは彼の詩を読んで不快な気分になったことが一度たりともない。無色ではないが透明で、真水ではないが海よりも澄んでいる。静かな部屋で窓からさす陽を浴びながら彼の詩集をめくる数時間がおれにとってどれだけ心地よかったことだろう。あの時が永遠に続けばいいとおもった。おれが彼の詩で一番好きなのはなんだろう。選べと言われるとどれを持ってきても釈然としない。やはり「今日」だろうか。「生きること それが烈しく今日である」というフレーズが凄まじい。ただ、その後若干蛇足気味になるのが痛い。ワンフレーズだけでいえば番兵の「しじまと刺し違えて死のうよ」が一番か。ビリイ・ザ・キッドもよい。「鳥羽3」「誰でも」あたりも印象深い。何の話をしていったけ。こうして言葉の洪水を送り込むことで、吐き出せるだけ吐き出しておれはすっきりし、聴衆は万に一つもこんな散文を読もうとはしなくなる。なにせ今の人間は3行以上の文字など読めやしない!ああすっきりした。
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