蠍の炎
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死にぞこないには違いないが今回違約はしていない。死んだんなら死ぬし、生きてたんならそれでいいんだ。
とはいえ答えを手に入れたのでおそらく呪いとの長かった付き合いも終わりだろう。寂しいが。つまらないごまかし方で消えなくて良かった。これならきっとすべての自分が納得してくれる。
呪いは解けないと言ったが、別に解けずともよいのだ。それは変質していくのだから。いま呪いは私に害をなすものではなくなった。害悪は消えてほんとうのさいわいを購ったのだ。
これが少なくとも藍としては最後に書き残す文になると思うのでまとめようと思う。
幾年にわたって繰り返してきた表現者論議はそもそもスタート地点からミスっていて、つまりここに私がいること、インターネットにたくさんの作品があること、もしくは現実世界であっても、そこからして嘘だったのだ。
インターネットに存在する数千億はすべて宇宙にまたたく星と全く同等であり、しかし本当に大事なものはいつだって自分の手の届くところにしかない。
つまり、例えばここに「害悪」という世界がある。Twitterには「Twitter」という世界がある。これは惑星だ。私たちはそれを観測できるが惑星の住人になることはできない。すべては透明な硝子で断絶されている。それは時空をも捻じ曲げて尚望む景色を映す。
断絶されているのは現実世界も同じだが、現実世界は殆ど非透明のドアで以て鍵をかけられている。
我々が本当に棲んでいるのは、そのドアを隔てた向こうの小さな室。ここだけだ。ここにあるものだけが本当のものだ。見渡すが良い。ここがおまえの室だ。本当のものだ。星にはなれないし、宇宙人にもなれない。
ここで聴こえる声だけが、ここで視える景色だけが、あなたにとって唯一本当のものだったのだ。
表現者はどこにいる?ということをずっと考えていた。答えは「小さな室」だ。結局みんな孤独だった。同じ星を見ることしかできない、どうしようもなく孤独で凍えそうな小さな生き物たちだ。
私たちの室は小さい。ここに入るものはそう多くない。だからみんな考える。自分の室に何を詰め込もうか。命か、金か、安心か……その選択肢の中からまさに「芸術」を掬い上げた者、他のすべてを犠牲にして芸術のみをその小さな室に詰め込んだ者、それだけが表現者だ。
表現者とは概念の名前であり、究極の自己犠牲であり、この世で最も尊いものであり、蠍の炎そのものである。
私がこれに魅入られた理由はただ「美しいから」だけであった。この世で最も美しい行いである自己犠牲の究極形。
結局単純なことだ。私は「美しさ」をこの世で最も重要視しており、その最たるものが「表現者」であったというだけだ。
自己犠牲ではなく自己満足では、と思うかも知れないが、自己犠牲とは究極の自己満足である。愛の話なんだよ?なんでわかんないかなぁ!
「ほんとうのさいわい」を手にしたいなら答えは一つ。ルカの示すとおり、あるいは宮沢賢治が信じたように、その身を信じるもののために煉獄に投げよ。そして林檎を手に入れるのだ。
道標をもて。どんな暗の中でも迷うことはないやさしい灯を。
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