藍ランキング
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
1.ニスカリカ
2.スーサイドブルー
3.メロイア
4.プラーミア
5.蜜草
6.血讐
7.僕らは呪われている
8.Untitled 9
9.edicius
10.Nidd
92:殺して
メロイアしか勝たんくない?何回も言ってるけど
メロイアの何が駄目なのか全くわからない イントロからBメロまでがやや単調ということとラスサビの音像が重なりすぎて濁ってる事と二番サビのバックコーラスがミスってること以外欠点ある?それは確かに欠点だけど他の俺の曲と比べるとかなりましな方だし加点方式ならお釣りが来ると思うのだけど 他の曲のが欠点一杯あるだろ
メロイアほど大衆評価と俺の評価が乖離したものはない いや大衆評価はちゃんと見てないんですけど、前も言った通り全部非表示にしてるので 俺の好きな小説をモロになぞってるから元の小説知らんとあんまり感情移入できないのかな
じゃあ、わかった、メロイアを、キー+2で聴いてみてくれ 本当はそっちが最初作ってたキーなんだけど高音が嫌いだから下げちゃった ラスサビが高くなりすぎるし
俺の曲だいたい嫌いだけどニスカリカ、スーサイドブルー、メロイアはマジで好き 僕呪は歌詞に限って好き プラーミアは音に限って好き あとは燃える産廃
友達(?)とゲームしたりビンゴ大会したり比較的宜しいクリスマスだった こういうのもオツなものよ(無敵理論)
最近気づいたけど、一日の良し悪しって極論寝るギリギリまでに「良いこと」で捲ればオセロの如く全部ひっくり返るからクソな日は終盤なんとかして神がかり的に良い事を起こすのが良さそう 今日の前半戦はゴミだったけど後半戦は良かったから
俺自身はどうしようもなく捻くれてしまったけど、俺はやっぱり真っ直ぐな人間が好きだ
自分はそうなれないかもしれないけど尊敬している 真っ直ぐで誠実で無邪気に笑える人を
そういう人たちを守りたいとばかり思う この歪んだ世界から
人を守りたいという想いと文明を滅ぼしたいという思いは相反するだろうか
さしあたってインターネットを破壊したい 調べたら海底のケーブルをブチ切ればインターネットは終わるらしい
何百とあるもの全部を切る必要はなくて、主要な都市のものを数箇所落とすだけで殆ど使用不能に追い込めるらしい
簡単そうに聞こえるけど実際には海底深くに埋められていたりバチクソに硬い素材でできてたりしてそう簡単ではないらしい
でも国を焼き払うより楽に破壊できそうな世界ではある 誰も死なないし
インターネットを全世界から完膚なきまでに破壊すれば間違いなく我々は救われる 少なくとも今よりは それだけははっきりわかる
俺は人間のことは好きだし誰も殺したくはない むしろ救済したいのだ
というようなことを宣うラスボスはよくいるが、たいてい主人公側が「それはお前にとっての救済であっても俺たちにとっては違う、お前の価値観を押し付けるな」的な事を言って倒して終わるのだけど、ある行いが誰かにとって救済となるかどうかなんて起こってみないと分からないと思うんですよね 離婚者たちははじめから離婚するつもりで結婚したわけではないし、会社を半年で辞めた人らは初めから辞めるつもりで入ったわけではない 救済だと信じて進んだ道が地獄だったんだ だったら地獄だと思っていたものが蓋を開けてみれば救済であることもあるはず
それは希望かもしれないし さらなる地獄かもしれない それはわからない 進み続けた者にしかわからない
子供の頃
ぼくはヒーローになりたかった
戦隊シリーズみたいな正義の味方に
弱い人たちを助けられる存在に
でもそれは
悪い奴らをやっつけたかったわけじゃない
悪い奴らに「襲われる人たち」を守りたかったんだ
正義の味方と悪の敵 似ているようでまったく違う
ぼくは悪を殺すのではなく 正義を守りたかった
たとえば悪い奴らを倒さずに済むならそれでよかった
たとえ敵であろうが 誰にも死んでほしくなんかなかったんだ
小学生の頃
ぼくは空手を習っていた
型の筋はそこそこよかったが ある日致命的なことが判明した
先生が言ったんだ ぼくは「人を傷つけることを恐れすぎている」と
組手試合で相手を殴れと言われた ぼくはできなかった 先生はため息を吐いた
みんなは鼻血が出るまで殴りあっていたけど ぼくはそれが怖かった
自分が傷つくことよりも 相手に血を流させてしまうことが
どうしてもぼくは人を殴れなくて 傷つけられなくて ぼくは空手を辞めた
最後のセブンティーンアイスは チョコミントだったと思う
帰り際に必ず買ってもらってたんだ おいしかったなあ
大学受験が近づく高校三年生の九月。
俺は進路相談室で泣いていた。
別に成績が悪かったわけじゃない。むしろ校内ではとびきり良かった。流石にトップではないが、学年内の全生徒のうちトップ10には入っていた。
選べる大学がなかったわけではない。むしろ俺は充分に選べた。俺が泣いているのはそれのためではなかった。
受験とは戦争であるとよく言う。実際その通りだ。幾万人もの高校生たちが限られた席を狙って、未来を掴もうと必死に蹴落とし合う。これが戦争でなくてなんなのか。
俺は小学生のころの、人を殴れない弱虫のままだった。そう、俺は人を蹴落とすのが辛すぎて先生たちの前で泣いたのだ。
高校受験の時にこれが発動しなかったのは何故だろう。あの時は俺も不登校病み上がりで必死だったし、大学受験と比べるとみんな平和だったと言うか緊張感がなかった。受験期に入ってもよく遊んでいたし、団体受験で一緒になった時は試験の合間に駄弁る余裕さえあった。
しかし、思い返せばあの時も俺の心に罪の種が撒かれていたのだろう。なぜなら、今でも鮮明に思い出せる映像がある。進路について説明された体育館での全校集会、進路ごとに集まるエリアが違うのだが、中卒で働く人、高校進学する人、家業を継ぐ人、起業する人などのエリアが用意される中、そのどれにも属さずに体育館の隅で体育座りをしている男の子がいた。とても澄んだ目をしていた。何かを悟ったような目だ。数人の進路指導の先生が駆け寄って何やら話していた。叱るようなトーンでも宥めるようなトーンでもなく、冷静に今後について話し合っているようだった。彼はどこへ行くのだろう、と、その時は俺は漠然と思っていた。彼がどこに行ったのかは、今の俺にも分からない。ただあの透き通った諦観の目だけが焼き付いて離れない。
一度だけ、俺の方を見たような気がした。それは俺がずっと見つめていたからなのだろうが、彼の目が同類を見るような優しい輝き方をしている気がした。
進路相談室の扉を閉める前、先生は「蹴落とし合いなんて思うな、個人戦と思え」と言ったが、俺には最後までそうは思えなかった。
俺はまた、誰も殴れないまま、己の人生を流れのままにした。
始めは良い上司だと思っていた。
口調は優しいし、あまり叱ったりもしない。そもそもあまりミスは犯さなかったが。
仕事を無理強いもしない、と、思っていた。「これやってくれないかな?」と頼まれる事はあるが、「これやれ」と言われたことはなかったから。つまり、俺には常に選択権が与えられているものだと思っていた。
俺は上司が好きだったから、仕事はハイハイ引き受けた。
でも、彼の要求は日に日に増え、流石の俺も段々と気づいてきた。仕事を押し付けられているということに。
ある日俺はそれを断ってみた。あの時の顔を、俺は今でも鮮明に思い出せる。
いっそ絵に描いたように逆上してくれれば良かったのに、彼は声色を変えることなく踵を返した。
その目に浮かんだのは、失望。その一言を、あれほどまでに如実に語る瞳を俺は知らない。
俺は何も悪くない、と、頭では分かっていても、人から失望されるという事が苦手で堪らない俺にとって、何よりも堪え難い痛みと後悔を覚えた。その後なんとか好感度を取り戻そうと俺なりに尽力したが、信頼が失われるのはあまりにも一瞬だ。どれだけ長く築いてきたものでも、一つの綻びでジェンガのように完膚なきまでに崩れ落ちる。
ある日俺はとんでもないことに気づいた。給与明細に残業代が書かれていない。
うちは中小企業でなんとタイムカードがなく、責任者が直接勤務時間を入力するという方法で勤怠管理を行っていた。
改竄されたのか。流石に俺も抗議したが、証拠がないとたかを括っているのか、「みなし残業代内じゃないの?」などと嘯いていた。そんな筈があるか。確かにうちは30時間のみなし残業があるが、俺はこの月その倍以上残業したのだ。
俺は憤慨した。こういう時パソコンのログが労働時間記録の証拠になることを知っていたので、それを利用して訴えようと思った。
しかし、結論から言うと俺は出来なかった。
訴えてどうなる。裁判を起こすのか。いくばくか金をせしめて、それでどうなる。間違いなく辞めさせられるだろう。辞めた後どうする。こんな空っぽのキャリアで。家庭はすでに崩壊している、戻れる場所もない。仕事を失えば俺は終わりだ。
何かと理由をつけては、俺は戦えずにいた。明らかに間違っている敵が、開くが、目の前にいるのに。それどころか、たまに上司に優しくされると、愚かの極みにも俺は彼を許しそうになるのだ。いや、もしかしたら許していたのかもしれない。俺はどうしても人を信じたかった。たとえ搾取され続けるとしても。
結局俺は過酷な労働環境と精神の不釣り合いに耐え切れず、退職金も貰えないまま自己都合で辞めることとなった。その会社は退職金が3年以上勤めないと出ないのだ。大体の会社は1年なのにな。ははは。
俺はまた、戦えなかった。戦っていればどうなっただろう。それで俺は満足いく未来を掴めたのか。わからない。俺は、どこでーーー
こどものころ
ぼくは
ヒーローになりたかった
いじめっこをやっつけろ
いすのさあ 足があるじゃん
あれでひとの足の指をはさむとどうなると思う?
わざとじゃないんだよ そんなつもりじゃなかった
あの悲鳴を
忘れられないから
<1回目 2010年6月1日>
▽訴え =生活保護の相談に来所した。09年10月まで洋服の販売で稼働していたが、体調不良により退職した。5月1日から文具店で働くも4日間で解雇となり、今後の生活が不安として相談に来た。求職活動しており、婦人服の会社を面接、返事待ちの状況。仕事も決まっておらず、手持ち金もわずか。
▽状況 =10年3月22日から雇用保険を受給している。3月26日に6万0070円、5月7日に11万5857円を受給。文具店からは5月25日に給与2万3000円が支給になった。しかし離職証明が届いておらず、雇用保険の手続きに行けない。健康保険は任意継続。主名義の生命保険あり。その他活用できる資産はない。通院している病院は主・妹ともない。妹は知的障害により障害年金を受給中(2か月分で約13万3000円)。妹は稼働していない。扶養義務者はなし。両親は他界。きょうだいは主・妹だけ。(預貯金・現金の保有状況、ライフラインの停止・滞納状況は聴取に至らず)
▽対応 =能力・資産の活用等、生活保護制度全般について説明した。高額家賃について教示。保護の要件である、懸命なる求職活動を伝えた。今後も継続して求職活動をするよう助言した。後日、関係書類を持って再度相談したいとして、本日の申請意思は示さず退室となった。
<2回目 2011年4月1日>
▽訴え =この1週間の生活相談のため来所。15日には妹の障害年金(13万2016円/2か月分)が支給される。手持ち金が少なく、食料も少ないため、それまでの生活の相談に来た。
▽状況 =ハローワークの教育訓練給付を受けているが、先方の手違いで4月8日まで給付されない。8日に給付金2か月分が支給され、15日には妹の障害年金が支給される。公共料金等の支払いを待ってもらっている状況だという。(預貯金・現金等は1000円。ライフライン滞納あり、健康保険は未加入)
▽対応 =生活保護または社協貸し付けは、決定まで一定の日数を要する旨伝える。この1週間の生活だけがどうしても困難とのことから、非常用パン14缶(7日×1食×2人)を支給。災害用等であるため、恒久的な支給はできない旨を説明。食料確保により生活可能であるとして、生活保護相談に至らず退室。
<3回目 2011年6月30日>
▽訴え =生活保護の相談に来所。求職活動しているが決まらず、手持ち金も少なくなり、生活していけないと相談に来た。
▽状況 =ハローワークの教育訓練給付を受け、給付金と妹の障害年金で生活。職業訓練も終了、4月下旬から仕事が決まるも、知的障害のある妹が体調を崩し、仕事に行けない状態になり、研修期間で辞めた。研修期間のため、給与はなし。その後も清掃のアルバイトをするも続かず、1週間ほどで辞めてしまった。国保未加入。以前は社会保険の任意継続に加入していたが、保険料が払えず喪失した。主の生命保険に加入していたが、保険料払えず解約した。活用可能な資産はなしとの申し立て。負債は家賃・公共料金の滞納分。6月15日受給の妹の障害年金(2か月分で約13万2000円)は、家賃・公共料金の支払いで消費済み。扶養義務者はなし。両親は他界。(ライフラインの状況は聴取に至らず)
▽対応 =能力・資産の活用等、生活保護制度全般について説明。高額家賃について教示。保護の要件である、懸命なる求職活動を伝えた。手持ち金も少なく、次回は関係書類を持って相談したいとのことで本日の申請意思は示さず退室となった。
平成24年1月20日、マンション管理会社から通報を受けた北海道札幌方面白石警察署員が、居室内で姉妹が死亡しているのを発見した。
姉は死後24週間が経過しており、妹は死後5日2週間経過していた。 死因については、姉は脳内血腫であり、妹は凍死 であった。
あ
浮浪児は全国で35、000人(朝日年鑑)とも40、000人(新聞記事)ともいわれている。人が集まる駅などにたむろして、汚い手を差し出し物乞いをするが、これでは空きすぎた腹の足しにはならない。ゴミ箱をあさつても食べ物がない時代だった。ある子は棄ててあった腐ったものを食べて死んだ。「一週間も10日間も食べられないときもあった。生きるためには盗むしかなかった。盗むと大人から殴る蹴る、こん棒で殴ると、それはひどい仕打ちをうけた」と語る子もいた。
良寛さんは「快楽のために盗むのは悪だが、生きるために盗むのは悪ではない」といっている。浅草で浮浪児を集め育てていた坊さんが、食べ物がなく子どもたちが次々に死んでいくのをみて、たまらなくなって「地獄へ堕ちろ」と孤児たちを放った。「盗みをしてでも生きろ。何でもしろ」といいたかったのだろう。
浮浪児は上野駅地下道などコンクリートの上にごろ寝する。上野地下道には数千名に及ぶ浮浪者が住みつき、しらみだらけのボロボロの服、汚れた真っ黒な顔、鼻が曲がりそうな臭い匂いに、世間から爪弾きにされ、忌み嫌われていた。ツバを吐きかけられたりした。「野良犬。乞食。汚い、近づくな。目をあわせるな。あれは人間のクズだ」まるで汚物のように見られた。当時の大学生らの調査によると、浮浪児の大半が絶望と答えている。
一筋の光もない生活だったのだろう。
餓死、凍死、病死、変死と幼い子ほど先に死んでいった。昭和22年元旦から7日まで、各家庭で親子が楽しい正月を過ごしている時期に、上野地下道では11人が凍死している(朝日、昭和22年1月9日)だれの介護もなく、ひっそりと死んでいく孤児たち。毎日、つぎつぎ死んでいく子どもを見ながら、「明日は自分も死んでいるかもしれない」と、死と隣り合わせに生きる生活だった。
「あの駅の地下道の、飢えと寒さに中でひしめいていた孤児たちにとって、政治はなかった。宗教も文化もなかった。大福の1個でもくれる相手なら、戦犯でもユダであろうとよかったのだ。地下道で子どもが死んでゆく時、町を通っていったあの革命の歌の虚しさを忘れられない。(中略) 親を殺し、家を焼き、子どもの権利も尊厳も奪いあげて、焼け跡へ放り出し、勝手に生きろ(勝手に死ね)だったのだ。国家補償は何もない。路頭に迷い、学業の道も閉ざされ、ネズミのように生きてきたこどもに対して!。ああ、ふしぎの国」と西村滋氏(作家)は述べている。
捕まえても捕まえても、次々と増える浮浪児に、世間は冷たかった。
「浮浪児は貧民窟の子どもらが、面白がって盗みや悪さをしているのだろう。ヤツラは不良少年だよ。社会に害毒を流しててるんだ。アイツらは性悪で手に負えないガキどもだ」といわれ、私は絶句した。世間はそのような目で浮浪児を見ていたのだった。当時の新聞にも浮浪児を厄介者扱いしている記事が多いのに驚かされる。
「だれも好きで浮浪児になりたいものか。親を返せ」と叫ぶ子どもの声が聞こえてくる。
駅ホームで佇む浮浪児の写真がある(朝日新聞、昭和21年2月7日)この子はボロ服で、寒空にハダシ、しかも片足が焼けている。その表情の暗さ虚無に胸を衝かれ涙がでた。
戦争さえなかったなら孤児にならずにすんだ子どもたちは、国からも社会からも見放されていたのだった。
10歳前後の浮浪児は、新聞売り、靴みがき、スリ、かっぱらい、置き引きなどありとあららゆる方法で飢えを凌いでいた。ヤクザの子分になったり、スリの手先になったり、身売りされた子もいた。親という後盾をなくした孤児たちは、大人に利用されていくようになる。敗戦後の大人の豹変ぶり、大人から受ける虐待などで、全く大人を信用できなくなり、子どもの心は荒れ果てていく一方だった。
浮浪児はアメリカ占領軍の「目障りだから浮浪児を一掃せよ」という命令をうけ、国は「刈り込み」と称して浮浪児を捕まえ、一匹二匹とトラックに放り込み各収容施設に送り込んた。収容先は定員の数倍にふくれあがったといわれている。
その孤児の収容施設は、粗悪な食事に軍隊もどきの厳しい体罰の日常化、逃げ出さないよう丸ハダカにする。窓のない一部屋に15人ほど押し込め、カギをかけて閉じこめる。まさに牢獄の生活であった。犯罪者扱いで、孤児たちはスキをみて脱走した。
昭和21年7月にお台場で撮られた孤児写真(毎日新聞)にも大きな衝撃をうけた。
当時お台場にはアメリカ占領軍の食料倉庫があった。その食料をめざして孤児たちが盗みに入る。盗みをした孤児たちを捕まえ、逃げ出さないようにハダカにして鉄格子の中に閉じこめた。猿よりひどい扱いであり、人間扱いしていない。大人の起こした無謀な戦争で、親も家も奪われ、孤児にさせられた子に対して、この子らに罪があるのか。
浮浪児狩りをしても、あとからあとから浮浪児が増えていく。これは前述したように親戚や養子先を逃げ出す子が後をたたないからである。
Yさん(小3女)は空襲で親を亡くし親戚に預けられたが、あまりの重労働に2年すぎに逃げ出し浮浪児になった。2日に1回、ボランティアが配るおにぎり1個で生きてきた。刈り込みにあいトラックに載せられ夜道をひた走り山奥にはいり、そこで棄てられた。
未来のある子どもを棄てるとは…。彼女は小3までの学業で止まり、東京空襲訴訟の原告になって、「私の人生を返せ。死んでも死にきれない」と訴えている。
人間としての尊厳、人格も破壊され、ドブネズミのように生きてきた浮浪児だつた。
誰ひとりとして自分が孤児になるとは、一度も考えたことがなかった。戦争は遠い所で行うもので、大人たちが子どもを護ってくれると信じていた。その大人から、棄てたり、犯罪者に仕立てたりされたりした。
せかいは
うつくしい
ですか?
社会は
素晴らしい
ですか?
終わりだ
Comments ( 0 )
No comments yet.