葉っぱ自供太宰治
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線画放棄型、ゴリ押しが効きすぎて地力がメタクソに下がりそう。下書きがぐっちゃんぐっちゃんでもぱっと見良い感じに見える程度まで仕上げられるから一日一描という要件を満たすことだけを考えればこれ以上なく楽な戦術。
創作に対してそこまで本気では無い。覚悟を決めたからこそ、まるで本気では無い。完全に気を抜いています。なぜなら覚悟を決めれば決めるほど「どちらに転ぶかわからない試合」ではなくなるので。転び先はもう分かっている。レールは整ったので後は走るだけ。俺の目標の場合、「死んでも良い」ので気持ち的にはかなり楽というか、非定量的な問題に縛られずに済むのがいいと思う。
ただ上手い絵を描けるだけの絵描きならもう完全に飽和している現代において、何か周りと差別化できる要素、物の怪ややじるし氏やはんくり氏のように画力に依存しない作風そのものを確立しにいくってやり方は強い気がする。ただ色んなキャラを描くだけならはんくりの劣化なので、「はんくりが描いたことのない」キャラクターのみを描いていくって形で差別化したい。今のところ2バツです。ガッシュとチカね。後から被せられたら知らん。
うまさに関わらず、鼻につく絵と鼻につかない絵ってのがあって、ツイッターだとはんくりと例のフォロワー3人鍵垢以外全員鼻につく。stinky過ぎる。逆にはんくりの健全さがすごいわ。絵から嫌なオーラが全く出ていない。心から絵を描くのを楽しんでいるんだろうなというのが伝わる。ツイッター以外ならまさちよさんも清い。
藍にはデッサンが分からぬ。藍はパースが引けぬ。藍は楽譜が読めぬ。熱意が無い。だましだまし生きてて全部嘘です。それでも願う。俺ははんくりになりたいと。画力や名誉とかではなく、心で。そのための条件ただ一つ、一日一描。
先に言っておきますが、アルバム内に一部不自然な英語がありますが、語感合わせのためなので。cheer sb upなことなんざわかってんだよぉ!!!!英語の先生か うっ お おめーはよぉ おっ
マジで文章鈍らだな。2017年くらいの俺の言葉選びの綺麗さと比べたら月とテナガザルですよ。例えばある記事で昔の俺は「エキゾチックな響き」という言葉を使ってたんですが、今の俺はエキゾチックの意味を知らない。でも昔の俺は知っていて適切に使えていた。これっておかしくねぇ?俺もしかしてセルンに記憶を書き換えられているのかな。とはいえ昔の俺の文章は米津玄師のそれの丸パクリなのでどうにもいけ好かなくはある。米津玄師を美しい日本語と認めたくないな。岡田悠だけが美しい日本語の持ち主。
「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!」っていうモンキー・D・ルフィのセリフと見せかけて別漫画のセリフありますけど、俺は個人的には「何が好きかより何が嫌いか」で語りあったほうが安全だと思う。事故が減るから。アレルギーを公言するのと好きな食べ物を公言するのではぜんぜん違うでしょ。それに、好物が合致するからといって相手がrepulsiveでないとは限らないんですよね。でも嫌いなものが分かっていればお互いそれについて言及したり関わることを避けられるでしょ。はなから適切な距離がつかめるようになると思うんだよな。最初のターンでお互いの全地雷を見せ合うようなものですから。敵の敵は味方とも言いますし。
ダ・ヴィンチ・恐山、アルファと喋ってる時は最高なんだけどtwitterのツイートとかはクソカスにムカつくので、人間ってやっぱりインターネット上だと変質するのだと思う。人々の感覚的には、口頭よりもインターネットの方が「本当の自分」をさらけ出せているような気分になるんだと思うけど、それは完全なる錯覚でお前達はインターネットに操られている。瘴気にあてられてるんですよ、本当の自分なんてものは存在しないんです。周りが赤ければ赤くなり、どす黒ければ黒になろうとする本能的な性質を、自由意志と勘違いしておる。インターネットがドブの海だからドブ色になるだけでタナー家とかにホームステイさせれば誰でも健全になりうる。「人に掲示板のような匿名性を与えると通常より攻撃的になり、ボトルメッセージのような匿名性を与えると通常より温和になる。」-藍,2018年
Self-proclaimed poets, 最も憎むべき存在。
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