罪
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これは持論だが、罪を前にした人には「赦す」と「裁く」の二つの選択肢が常にある。
しかし、その罪が如何なるものであっても「裁く」事が「赦す」事より清い行為であることは有り得ない。
裁くより赦す方がはるかに難しく、またそちらの方がはるかに偉大だからだ。
すべてを裁く社会と、すべてを赦す社会なら、長い目で見れば間違いなく後者のほうが真の平和に近づくだろう。
そもそも、我々は真の意味で「罪を裁く」ことはできない。
目の前に在る罪が強盗、強姦、殺人であろうと、我々が裁けるのは罪に呪われた「人間」だけだ。罪はいつも無傷で嗤っている。
人間を裁いてなんの意味があろう?それは風邪に罹った人を見て、病原菌を殺すのではなく心臓を握りつぶすようなものだ。
「犯罪者」といって人を侮蔑するのは、ちょうど子どもが「◯◯菌」と言って遊ぶ原始的な差別と変わらない。
罪に襲われた人は不幸だっただけである。また、罪は人間の流行り病であるため、疾患者を殺してもこの世から犯罪は消えず永劫に罪人が生まれる。けっきょく、なんの意味もない。
必要なのはワクチンだ。死刑台ではない。
そして「赦す」という行為は病の治療に限りなく近い。
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