痛み止めで何が悪い
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
本日の議題、「痛み止めで何が悪い」。
私が上顎洞炎に苦しんでいたとき、もっとも役立ったのは抗生物質ではなく痛み止めでした。あれがなければ本当に苦痛から死んでいたと思う。
私はずっと「根本的解決」、即ち抗生物質となるアートを神格化してきたが、では痛み止めとなるジャンク・アートの何がだめなのか?
過去の私の主張は「芸術には問題を根本解決する力があるのだから、そうしないことは無責任である」という感じのものだったが、これは「薬剤には病気を根本治療する力があるのだから、痛み止めを作るのはナンセンスである」と言っているのと変わらない気がする。
鎮静剤アートを受容するときがきたのか……。「見る精神安定剤」「頭空っぽにして観れる」そんなアニメばかりが制作されるようになってしまった。それを受け容れろと?ノッカーと共存しろと!?
きららってノッカーだったのか。そうかもしれない。人類を苦しみから開放したいのが目的でしょう。
つまりね、鎮静剤に甘んじるならこういうことです。「痛みは抑えといてやるから、あとは自分で(人生の諸問題は)どうにかしな」。問題の根本解決を人間サイドにすべて依存させて、バックアップに回る。フロントとバックエンドの分離。
実は知ってます。「これ」の最適解としての姿。NSFWです。
NSFWには『レ・ミゼラブル』や『モモ』のように人生の諸問題を根本解決してくれる力はないが、ロキソニンのごとく汎く痛み止めとして機能する。つまり精神安定剤/鎮静剤としてのアート生産にまわるなら私はそっちに舵を切るべきだろう。
# 現実逃避
星屑によれば「現実に求められたり、何かしなくてはならない物事から意図的に注意や意識をそらすための行為や心理状態。困難な状況から目をそむけ、不安から逃れようとする機制」らしい。
現実逃避アートがよくないと感じるのはやっぱりここで、「先延ばし」にしかならないのよね。先延ばしってことは、いつか向き合わなきゃいけないってことです。今日逃げたら明日はもっと大きな勇気が必要になる理論でいうと、現実逃避のたびに諸問題は雪玉式に膨らんでいくわけで、やがて「絶対に解決できないサイズ」に膨れ上がるだろう。そのとき当人に残された選択が「自殺」しかなくなる瞬間がある。ええ、私はそれを危惧しているのです。
ただ、もうひとつ考慮しなければならないことがある。人生って、有期限なんですよね。「先延ばし」を繰り返した結果、寿命の向こう側まで問題を押しやってしまえば問題はイベントホライズンへ呑まれて消えていくだろう。そこまでいけば勝ちじゃあないか、と思う者もあるかもしれない。
しかし、本当にそれは「勝利」なのだろうか?人生にTOD勝ちしても芸がないんじゃなかろうか。目的と手段が入れ替わっている気がするよ。
私はただ……人々を「自立」へと導きたいだけです。
【自立】自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに、自分の力で物事をやって行くこと。
即ち「心の穴を埋める何か 失うことを恐れないわ 自分のことを癒せるのは自分だけだと気づいたから」に辿り着くことです。
最後には、みんなひとりになる。その時寂しくて泣かないように今培うのだ。
精神安定剤アートは赤ちゃんのおしゃぶりのようなものです。いくら落ち着くからって、いつまでも咥えてるわけにはいかないんです。大人にならなければ。大人に……大人、に……
君は信じるだろうか。たいていの子供たちと違い、私は大人になる日を決して迎えたくなかった。
大人になりたいと思ったことは一度もない。いつも年若いままでいたかった。
…………。
ふたつの腰掛けに、同時には座れない。
ウォーコップというイギリスの哲学者は、生きることを「生きる挙動:living behaviour」と「死を回避する挙動:death-avoiding behaviour」の二つに分けています。僕には、現代人の行動のほとんどは死を回避する挙動ばかりに見える。「生きる挙動」というのは内部からわいてくるエネルギーみたいなもので、こっちのほうが大事だと思う。
私が座るのはこちらの椅子だ。私はliving behaviourを信ずる。お前はどうする?
Comments ( 0 )
No comments yet.