痛み_2
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賞賛が足りなくて潰れた人もわりと見てきたけど、賞賛が過ぎて潰れた人も僕は数人見てきた。
というか、僕が創作の道へ本格的に進むに至ったのは「その人」の存在があったからである。(いちおう勘違いする者が現れないよう言っておくと、音楽を作る例の人ではない)
「褒められること」に押し潰された人々は皆作品に関しては悍ましいほどの才能を持つ人ばかりだった。
彼らは必ず遺書めいたものを残していった。書いてある内容は一様にして大まかな部分は同じで、「賞賛はときに害悪である」という事だった。この思想は当時の僕に衝撃を与えた。
始末に悪いのは、「そうである人」若しくは「それを身を以て知った・気付いた人」の数は「評価されたくてされたくてたまらない人」の数と比べて圧倒的に少ないということである。
それ故、思慮するに値しないとも言えるほど少数である「賞賛を毒とする人々」は常に迫害される。
誰にも理解されないうえ、周囲は己の行動を「善意」と思っているのだから彼らの苦しみは想像を絶するものだろう。
とくに承認不足時代とも言える現代において、誰もが承認に飢えている今、その承認を毒としてしまう人々はもはや生きていられない。
個人が「おれを評価しろ」と叫ぶ分にはいいのだろうが、「作品を作る人はみんな評価されたがっているから皆崇め給え、広め給え」と大衆に訴えかけていくタイプのひとがいるとちょっとしんどい。
そこでもし「褒められたり宣伝されるのが心から嫌な人もいる」と口を出そうものなら「そんな人は性格がひん曲がっている。殆どの人は褒められたら嬉しいのだから考慮するに値しない」と返ってくるだろう。
そうやって貴重な才が迫害されていく。僕はそれをけっこうな数見てきた。
彼らの末路を見ているとあまりにも居た堪れない。常人の何倍もの評価を得ているのに、彼らは誰一人幸せではなかった。
「作品が評価されれば幸せになれるだろう」という僕の思想は2012年あたりでおおよそ打ち砕かれ、現在は殆ど残っていない。
彼らのような、創作アリーナにうまく適合できなかった人々がちゃんと活躍できる場ができないかと思う日々である。
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