死
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「生きてることが辛いなら」だとか、「僕が死のうと思ったのは」だとか、そういう曲が好きだ。
というとまるで厨二病のようだし、実際そうなのかもしれないが、ともかく好きなもんは好きだ。つまり、否定ではない歌。どれだってそうだ。希望を歌う歌は絶望を否定する。僕等の純粋な感情を否定する。前に進むのではなく、いじける子どものように座り込んでしまった僕らの隣で一緒に座ってくれる歌が好きだ。
よく、死を若干肯定するような歌に対し「自殺を助長している」「こんな歌があるから自殺者が増える」という意見が飛んでくるらしい。僕はこういうものを見るたびにもやもやしていたが、その理由がぼんやりとわかった。彼らは自殺を否定しているというより、自殺者を否定しているのだ。「自殺者は存在してはいけない」と考えているのだ。それがどうにも苦しい。自殺者も悩み抜いた末に自殺というひとつのゴールにたどり着いた、というだけだ。誰も彼らの人生を否定などできない。誰にも彼らの人生を「可哀想なもの」「悲しいもの」などと言わせたくない。彼らを否定して欲しくない。頭ごなしに「自殺は良くない」と怒鳴りつけると、今まで死んでいった何億人もの自殺者の生き様そのものを否定しているように思える。彼らの足跡に砂をかけて消そうとしている。それがどうにも悲しいのだ。どんな死を選ぼうと人生は人生だし、善い死や善くない死などあるものか。有終の美とは個人の神に宿る。自殺によってのみ救われる人もいるだろう。どう生きても刹那である我々にとって、自殺の許容こそがひとつの希望になりうると思う。(もっともさっきあげた2曲はべつに死を肯定してはいないと思うが)
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