星野源が暗いアーティストだと思う理由
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以前、星野源はamazarashiや倉橋ヨエコよりも余程暗いという話をしたと思う。
理由を語ればきりがないが、最近気付いたことひとつ。
(大仰なタイトルを付けたが、今から語ることは星野源から暗い印象を受ける理由の2割程度しか締めていないと思う。あんまり長い文は書きたくない)
amazarashiや倉橋ヨエコは、基本的に歌詞の前半部分で思う存分悲劇を語り、
終盤で「それでも頑張ろうぜ」みたいな終わり方になる。
amazarashiは特に8割以上の楽曲はこの構成だろう。
倉橋ヨエコは「今日も雨」などは分かりやすい。他にも、暗いとされるアーティストたちの歌詞は
だいたい「世の中クソだし、色々辛い事もあるけどまぁやってこうぜ」みたいな話に帰結する。
つまり希望を持たせる終わり。「闇の中の光」に焦点を当てている。
対して星野源は、むしろ最後のワンフレーズで闇を描こうとする。
例えば「時よ」は最後に「時よいつか降りるその時にはバイバイ」と歌っているが、
要するに死を暗示しているのであり、それをサラっと、とても明るい声で歌うものだからたまらない。
他にも、「もしも」の終わりのフレーズは、
「もしもの時は側に誰もいないよ わかるだろう
今まで会った人や残して欲しい拙い記憶も」となっている。こんな暗い歌詞で曲は終わるのだ。
「知らない」は「物語つづく 絶望のそばで 温もりが消えるその時まで」で終わるし、
「乱視」は「すぐ消えて終わる」で終わる。
「ダンサー」なんかも解釈次第だが悲劇で終わると言っていいだろう。
彼の歌は基本的の底抜けに明るく歌われるが、終わり際もしくは節々に微かな「闇」を残す。
つまり「光の中の闇」に焦点を当てている。絶望を持たせる終わりというより「メメント・モリ」の体現と言った方がわかりやすいか。彼の闇とは生き死にに関わる事が多い。
物語の構造を考えればわかるが、「悲劇→喜劇」と「喜劇→悲劇」では同じものを使用していても印象が全く異なる。
「悲劇→喜劇」の場合、悲劇とはむしろ最後の「喜劇」を引き立てるためのお膳立て役であり、喜劇が大喜劇に昇華するため「あえて落とす」部分なのだ。つまり総括するとこれは「喜劇」の話となる。
対して「喜劇→悲劇」の場合、それまでの喜劇はむしろ最後の絶望を引き立てるための重しとなり、悲劇を転落劇と相成らせるための布石。総括するとこれは「悲劇」にほかならない。
闇が強ければ強いほど光は目立ち、光が強ければ強いほど闇が目立つ。
曲調が底抜けに明るいのに歌詞が真っ暗だったりするパターンもこれを利用している。
というわけで、星野源は根っこは暗いアーティストという印象を受ける。
最新の曲「恋」なんかも、わざわざ最後で「二人」を「一人」に変えているのが厭らしい。
「二人」は喜劇名詞だが「一人」は悲劇名詞だ。
他の最近の曲で言うとDriking Danceなんかは正直全編真っ黒だろう。
ただ、「ギャグ」はamazarashi等の曲と同じ構成と言える。「弱さ飛び越えて」は喜劇。
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