戰え
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二日目
おはよう。そういえば、まだ君の名前を聞いてなかったな。何て言うの?……梢恵?へぇ、ちょっと意外だな。いや、なんでもないよ。でも、下の名前で呼ぶのはなんだか躊躇われるな。名字は?伊藤?じゃあ伊藤梢恵か。じゃあ伊藤さん、これから暫くはよろしく。昨日も言ったけど、どれだけ長引いても一ヶ月もすれば家に帰してあげるから。そうだ、昨日はよく眠れた?室温管理には気をつけているつもりだけど、なにぶん拘束されているからね。君が眠ったのを感知して自動でロックが外れるようにしておこうか。うん、できるよ。寝言を記録するアプリっていうのがあってね、あれを使うと人がいつ眠ったのかが分かるんだ。それと連動させておけばいい。まぁ、そんな話はおいおいするとして……昨日渡した本は読めたかい?へえ、もう読み終わっちゃったんだ。やっぱり暇だった?何か欲しいものがあればいつでも言ってね。まぁ、僕は貧乏だからそんなに高価なものは買ってあげられないけどね……どうだった?あれは僕の中の聖書のうちのひとつでね、すべての……いや、なんでもない。面白かったかい?それはよかった。君が今、恐怖から当たり障りのない受け答えをしているのか、本心から言っているのか、やっぱり僕にはまだ分からないけど。何か分水嶺となる出来事がそのうち来ると思うんだ。例えば、僕は昔好きな人がいてね。高校生のときだった。その子は3年とも同じクラスで、学籍番号が隣だったから、何かとよく一緒になったんだ。とても優しい人で、共同実習で僕が怪我をしたときもひとり気にかけてくれて絆創膏をくれたっけ。まぁ、僕は昔から変わらず教室の隅にいるような存在だったから、自分からどうこうするってことはなかったんだけど、それでもずっと好きだった。彼女はおとなしかったけど人を惹きつける人だったから、彼女が僕に興味を持つなんて絶対にありえないことだと思っていた。それに、僕自身も正直言って、あの子と深く関わりたいとは望まなかったんだ。なぜかって?人格の奥底を知るのが怖かったから。僕はしょせん公共の場での彼女の顔しか見たことがないから、あの子の本質を知らない。もしかするとずっと猫をかぶっているのかもしれない。僕はそれが怖かった。彼女のやさしさが嘘であると暴かれるときが。実際、僕の価値観からするととても本心とは思えないほどに彼女は清く親切だった。人間としてすぐれすぎていたんだ。だから僕は、それは虚構かもしれないという気持ちを抱きつつも、それでもいいと思えるほどの想いを寄せていたんだ。でもあるとき、あの子は僕の斜に構えた疑念をすべて吹き飛ばした。調理実習の授業があってね、そのときも学籍番号でまとめられたから僕とあの子とほか数名と一緒になったんだけど……え?この話は前にもした?ああ、そうだったかな。ごめん。もしかすると僕は女性の前で他の女性の話をすべきではなかったのかな。気分を害したなら謝るよ。まぁ、そんなこともないか……そもそも君は連れ去られているんだから。僕はただの誘拐犯で君はその被害者だ。どんな話をしたって気分を害すのかもしれない。でも、これだけは信じて欲しい。僕は、この状況そのものを除いては、絶対に君の望まないことはしないよ。目隠しもとってあげただろう?もし僕が君の心を覗くことが出来て、逃げる気はないということさえ分かれば、すぐにでも拘束を外してあげたいくらいだ。でも、まだわからない。何かきっかけとなる出来事が必要なんだ……あの調理実習の日のような。そしてこの本は事によるとそのきっかけとなりうると思うんだ。聞かせてくれ、君はこの本を読んで何を思った?話しにくいなら原稿用紙とペンでも持ってこようかな。学生なら読書感想文なんて書き慣れたものでしょ。え?あぁ、そうだね。いきなり何を思ったと訊かれても困るか。じゃあまず一章についてから始めよう。ヴァルジャンは子どもたちのためにひとつのパンを盗んだ。そしてそのたったひとつのパンのために19年もの牢獄生活を強いられた。まぁ、正確には本来の刑期は5年で、度重なる脱獄による上乗せなんだけど……それでもパンをひとつ盗んだだけで19年だよ、途方もないよね。君には想像もできないかな、自分の年齢を超える年数を徒刑場で暮らし続けるというのは。さらに言えば彼は途中から二重鉄鎖をつけられていたから、今の君の状況よりもはるかに、はるかに過酷な日々だった。やがて彼は世界を呪った。そして世界も同様に彼を呪った。はじまりはただ、食に飢える子供を救いたいという想いだったのに。社会は彼に職を与えなかった。地位を与えなかった。他にどうやって彼が子供たちを救え得たというんだろう?この「ひとつのパン」は今後この物語を象徴する存在となっていく。ねぇ、君はどう思う?もし君がヴァルジャンだったなら、子供たちのために何をしてあげられたかな?……それは無理だよ。当時は今よりずっと格差社会でね。農民の人権はほぼ無いに等しかった。だから冬が来た時みんな飢えていたんだ。富める者たちが遊びで酒瓶を投げ捨てる中ね。社会に期待するのは難しい。自分で行動を起こすしかない。さあ、どうする?……そう、どうしようもないんだ。つまりね、見方によってはヴァルジャンはこの時点ですでに「蠍の火」足り得たんだ。ただパンを盗むことに成功してさえいればね。結果的に彼という根本を失った枝葉はすべて枯れてしまったわけだけど……。僕もずっと考えてたんだけど、まぁ、世界に選択肢がひとつもないわけではなかったと思う。例えば、これは未来予知が殆ど前提になるけど、職を失った時点ですぐさまディーニュの司教のところに駆け込んでいれば、彼なら子どもたちの面倒は見てくれただろう。この終わることのない絶望の連鎖を
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