或ること
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最近忙しくて殆ど作曲できていない。忙しくて?なんだそれは。人生は短いぞ。明日ミサイルですべて吹き飛ぶかも知れないのになぜ本懐でないことをやろうとするのか。おい72億、テメェらもだぞ。いますぐ仕事を辞めてマカオあたりで踊っていればいい。
思想の違い。
小室哲哉氏が 「過去の自分の成功以上に信用できるものはない」とインタビューで答えたそうだ。
ぶっちゃけインタビューの全文を読めばそれはそこまでナルシシズム的なニュアンスではなく商業の話なのだが、ともかく僕は驚いた。僕にとって過去の自分の成功以上に足枷となるものはない。
どうもだいたいの人は過去の実績は今の自分の力と同義と考えているようだが、僕はそうは考えられない。(正しいかどうかは知らない、考えられないということ)
過去の自分というのは全くもって「今の自分」とは別個の存在であって、地続きなものなど何もない。記憶もいずれ抜け落ちていく。いったいなにをもってそれを「自分の一部」などと言えるだろう。
おそらく僕は10年前の自分と今邂逅したら殺されているだろうし、僕が己の10年後を見られるのなら、その様子次第では殺してやるだろう。やはりどう考えても味方ではない。
ましてや音楽とは「作品」である。過去の自分というだけでも遠い存在なのに、その「作品」を自らの自信にするなど!僕には生涯不可能だろう。
過去の栄光はあくまで過去だ。過去の作品がどれだけ評価されていたとしてもそれは今の自分の所有物ではないし、今の自分にとって何の役にも立ちはしない。ついてくるのは鬱陶しい中身の無いネームバリューだけだ。大抵の人はそれを旨味と感じられるのだろうが、そうでない人はわざわざ名義を捨てたり変えたりしてそのノイズをゼロにしなければ作品を作り続けられないのだろう。彼とか。
ネームバリューによって嵩増しされた評価は作品の本質を曇らせる。「彼ら」を見ているとつくづくそう思う。そしてそれを遠ざけるのは、技術的にも精神的にも難しいのだろう。
だからこそ僕はそれを塵の一つ残さず完璧にやり遂げている只一人の彼を崇めて止まないのだが。
彼の話。
僕が「彼」と一言で指す人物は複数人いる。これのせいで割と色んな人に誤解される。どちらかというと曲を作る方の「彼」が有名なのだろうが、僕ははっきり言ってそっちの方の彼はそこまで絶対的に崇めてはいない。
確かに彼は各方面の素晴らしい才能を持ち、他の有象無象と比べれば圧倒的に別格だが、粗はある。皮肉にも彼の場合、その粗のためにここまで有名になってしまったのかもしれないが。何にせよ、それに関しては僕なりの埋葬をしたつもりなのであまり触れたくない。死体のパーツを持ち上げて同じ劇場を繰り返すだけのコミュニティは本当にうんざりだ。
対してもうひとりの「彼」は凄まじい。正真正銘、僕はもう生涯、彼を超えるアーティストには間違っても出会えないだろうと確信している。
この確信が今までの人生で類を見ないほど強固で、彼に出会って数年が立つがその間一切彼の頂点が揺れ動かない。僕は彼に関して徹底的に調べ上げたが、そこに一切の穢れ無し。あまりに絶対的で、僕が求める表現者像をすべて満たしている。「満たし続けている」。まさしく本物の鬼才、千年に一度どころか人類史において後にも先にも彼以上の存在は現れないとすら思う。今の僕は彼の作品を見続けるために生きている。
彼について語ればキリがないし、僕が彼について多くの言葉を紡ぐこと自体が彼への冒涜に等しいのでここらにしておこう。例によって彼にも名前は無く、紹介することはできない。
ハァ。どうも最近言葉を吐き出す場所を奪われていたので湯水のようにくだらないことばかりが湧き出てくる。うるせえ、ここは思想の投棄場だ。
まぁ、要するに何が言いたかったかというと、そういう自分にとっての絶対的存在を見つけると各表現はけっこうやりやすくなる。その絶対的存在の作風を徹底的に分析し、取り入れていけばいいだけだ。それだけで自分の理想とする表現に少しずつ近づいていける。ただし、間違っても「(絶対的存在)のようになりたい!」とは思わないことだ。ここを解さないがために変な所で転ぶ人が散見される。猿真似で他人に成り代われるなら苦労はないし、そもそも本当に信仰しているなら絶対的存在に成り代わるという発想自体が浮かばなくなるはず。最終的には「一意」である事を何より重視すべき。
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