呪い-蠍火
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生き方がかなりよい方向になってきている 仕事は相変わらずゴミだけど今置かれている状況に対して「仕事はゴミ」と定義しているのはこのおれなので考え方次第ではどうとでもなるわけで 「仕事は楽しい」と思いこんでしまえばしまいなんですよきっと
養老孟司の講演全部聴く をやった これ多分3年前くらいにもやった
話の面白さもさることながら声と喋り方が本当に心地良いんですよね 一生聴ける あと谷川先生と時々言葉遣いが似ているときがある 「わりあい」という副詞を多用したりね
今までASMR流し聴きしてたのを全部養老先生やら文化人の講演にしたら意識高くなりそう 少なくともましにはなる気がする モスーと養老先生の思想デッキを流し込んでいます
モスコードに「やる気がない、やる気が出ないと思うのが間違いで、そう思う前に作業をすると作業をするという事実だけが発生するので良い」と書いてあって目から鱗だった そのとおりじゃん やる気がないから作業が進まないんじゃなくてやらないから進まないんですね ははあなるほど……
ワンピース、アーロン編以降急につまらなくなってきた ルフィがいきなりアホになった気がする なっはっはとかそんなハマダみたいな笑い方しなかっただろ
これも興味深かった どの説も納得行くところ行かないところあったけど、主語抹殺論というのはわりあい腑に落ちた 確かに西洋言語の理論引っ張ってきてもしょうがないわな ただ主語を落とすというだけならスペイン語とかもやってますからね もちろんあれは動詞で主語が判るから省略してるだけなんだけど そう考えると日本語では動詞の格変化で主語を特定できるわけでもないのにガンガン落とすから確かに異質なのかも知れない チョムスキーが「左右」がすべての言語に存在するって言ってたのはそうか……?と思った トキポナとか左右ないし 人工言語とはいえ ただ「横」という概念はあるんですよね(poka) 左右を「広がり」という親要素で括っているわけで そう考えると全言語に共通するとすれば「左右」ではなく「広がり」なんじゃないのかなと思いますね 広がりが存在しないということは零次元ということですから それはちょっと考えにくいだろうと
スキマ時間を勉強に費やすとSNSやらの呪詛に目を奪われる心配がないということに遅まきながら気づいた ただわたくしは昔から勉強という言葉がいまいちストンと落ちなくてね 「勉強」って言葉は”学ぶ”ということに対して不本意(reluctant)であるという含意を内包しているような気がするんですね 浮世の義理を果たすと言いますか でも学ぶっていう行為はそういうものじゃないだろうと 好きだから学ぶ、やりたいから学ぶんですよ そういう意味で情操教育なんてのはとんでもない話で、学ぶ意志のない者にものが教えられるわけないじゃないかって思うんですけどもね でも皆さん学校嫌いであるとか宿題嫌だって人多いと思いますけど、実はちゃんと学んでるんですよ まんがを読むだとかゲームするだとか、あれも全部学びですから そうでしょ?漫画家志望が一心不乱に古今東西の漫画読んでりゃ学んでんだなーと思いますでしょ あるいはゲームにしたってそうです 皆さん経験あると思いますけども、長いことクリアできなかったステージを何十回何百回とチャレンジしてだんだん上手くなってきて最後には突破するという これはまさに「学び」ですよね ”身につく”ということが学びの本質ですから じゃあ何度もステージにアタックすることを皆さん「勉強」っていうかといえば言いませんよね 好きでやってんですから ただその「好き」の中でも、別に難しい面で詰まることが好きって人は少ないと思います むしろストレスって人が大半です じゃあなぜストレス抱えながら強制されてもないことを何度もやるんだっていえば、これはもう答えは一つなわけです 「学び」の快楽を得ているからです 何度も挑戦して徐々に先に進めるようになることが皆さんの脳にとって悦びであるから皆さんせっせとやり続けるわけですね そういう意味では実は皆さんはたいへんな「勉強家」なんです
じゃあなぜ「趣味はゲームです」って言ったら遊び呆けると思われんだおかしいだろ、って方もいらっしゃると思いますけども、これは要するに国家がそう決めたからなんですよ 「学問」という言葉で定義されているものに向けられたエネルギーは「学び」であり、それ以外に対しては「趣味」だとか「遊び」というふうに括っちゃったわけです 要するに一種の洗脳ですね ゲームにしろ映画にしろ実際のところすべてのものは「学び」の対象になりうるんですけども、実際社会で評価されるのはその好きな「学び」のジャンルがたまたま国語数学理科英語社会といったような国が決めた種目に向いていた人だというだけの話で 実際はなんに対してでも勉強家ではあれるはずなんですね 世の中見渡して御覧なさい、何の役に立つかわかんないような学問いーっぱいありますよ アストロバイオロジーといって宇宙生物学なんていうのもありまして、これは宇宙に存在する生命体について研究するって学問なんですけど馬鹿らしい話でしょう?宇宙に生命がいるかどうかもわかってないんだから 他にも葡萄学ですとか時間生物学だとか妙ちくりんなのがいっぱいありまして、そこに今からゲームやらまんがやらが加わっても全然問題ないと思いますね そうでしょ?実際近年になってプロゲーマー養成学校みたいなのも出てきたわけですから これ昔じゃ考えられないですよね でも今はゲームが仕事になり得る世界なわけで じゃあこの数十年で何が変わったのかっていえば「偏狭」です ゲームというものが登場した当時から子供や若い人がみんなゲームが好きだっていうのはずっと変わらなかったわけです 変わったのは社会を支配する高年層の方々の見方です 「ゲームをするという行為がアートになり得る」ということにお偉いさん方が今更ながらようやく気づいたわけですね オリンピックとか皆さん頑張って飛んだり跳ねたりしてるでしょ?それ見てみんなで喜ぶわけですよ すげーすげーって それは脳科学的にいえばミラーニューロンという部分が発火するからなんですが、要するにゲームのスーパープレイやらでも同じことができると 見世物になったり金をとれるようになったものは社会の役に立ちますから「学び」ということにしたわけです ただ実はそれははじめからずっと学びだったんですよ 遅まきに「気づいた」というだけで ですから今後も今までは無価値だと切り捨てられていたものがどんどん「学問」として認められていくんじゃないかと思いますね
まあ話が長くなりましたけども、要するに「勉強」という言葉の響きだけで怖気づく人が大変多いんですが、実際そう悪いものでもないと 皆さん心のどっかでなにかしらに対しては学習を愛しているのだということです これは実は勉強という言葉そのものが悪い部分もありまして、要するにこれは「勉めを強いる」という構成の二字熟語ですから、怯むのも無理はないと ただ実際のところは微妙に違っていまして、正確には「自らを強いて勉める」という、補足構造あるいは認定構造をしているんですね ですから強いる主体は自分なんです 学びを得るには自らを強いて勉めよ、と こういうのを昔の言葉でなんて言うかというと「困知勉行」と言うんですね 儒教の中庸の「生知安行」「学知利行」「困知勉行」のうちのひとつです 苦しみて知る、というのはまさに先程申し上げたクリアできないステージを何度もやり直して覚えていく、という感覚に非常に近しいものがありまして ですから本当に好きなことに対しては皆さん案外耐えられるんですよ、本質的に学びが好きですから だのに勉強が嫌いなのは単純にその種目に興味がないからなんですね 私だって明日から政治経済学者になれって言われたら嫌ですよ ですから皆さんに言いたいのは、なんでもいいので興味のあるものを見つけてみてください そしてそれを「学問」としてみてください 元から公的に学問であればラッキーですし、そうでなくても学問と勝手に認定してしまっていいです 私なんかはちょっと前throatologyなんて言って喉学なんて存在しない学問を勝手に作り出しましたから でもそれくらいでいいと思いますよ 実際私喉の構造にかなり詳しくなりまして「学べた」わけです 私が英語を学び始めたのも海外の官能小説を読みたいという不純な動機でしたから でもそれでもある程度身についたわけです 他の意識高そうな人が躍起になってもなかなか身につかないものを それは英語の勉強を義務感ですとか見栄でやってたわけじゃなくて「やりたい」という意識が強くあったからなんですねきっと そういう状況下で学びの心っていうのは花開くんじゃないかと思ってます というわけでそろそろ時間なので本日はこのあたりでご勘弁願いたいと思います、養老孟司でしたありがとうございました
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