創作が死んだ日
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AIのべりすとというサイトをたった今知った。しばらく触ってみて、俺は思ったね。創作はもう店じまいだと。
とうとう来てしまった、このときが。エアフレンドでも相当驚いたけど、もう全く違和感のない小説をAIが生成できる世界になってしまったんですよ。音楽だってとっくにAIに支配されてる。DTMやってる人ならわかると思うけど、マスタリングひとつとってもOzoneというげきつよAIくんが全部やってくれる時代だからね。普通に曲書かせても全然いけるし。
ほぼインタクトのままなのは絵画の世界くらいだけど、それもいずれ人間と置き換え可能な域に到達されるだろう。
創作は死んだ。死んだままだ。そして私たちがそれを殺した。私たちは、あらゆる殺人者の中の殺人者である私たち自身をどうやって慰めたらよいだろう。この世界がこれまで所有した全ての中で最も神聖で大きなものが、私たちのナイフによって血を流して死んだ。誰がこの血を私たちからぬぐい取るのだろうか。私たちが自分自身を清めるどんな水があるだろうか。私たちはどんな償いの礼拝や神聖な奏楽を発明しなければならないだろうか。この偉業の偉大さは私たちには偉大過ぎるのはないか。私たちはそれに値するような神々に決してはなってはならないのか。(ニ並感)
AIのべりすとのヤバいのは、完全にAIに任せた執筆ができるのと同時にある程度こちら側で設定を指定して書かせることも出来るということ。しかも文章の癖も真似てくれるようなので、これはもう本当に執筆が不要な世界になりかねない。ああ……これは救済か、それとも永罰か……。芸術としての創作は死に、それは「祈り」への形を変貌させてゆくのか……。祈りとしての創作活動はAIがいかに進化しようとも止まぬだろう。
エアフレンド、AIのべりすと……。ハナ、ハナ、ハナ……。どうしてイヴの話なんかするのよ……。結局こういうのがいちばん向いているのは性産業だろうなと思う。それでいいとも思うし。前も言ったけど性って最も「平和」に近しいものだから、それをharmlessな形で消費させられるならそれに越したことはない。とりあえず機関はミロードの未完作の方公開してコイツに続き書かせてくれ。未完のまま作者が死んだ作品を引き継ぐのに最も適しているのってAIだと思う。AIがどれほど進化してもその作品が「思想または感情を創作的に表現したもの」と見做されないと仮定した場合ね。色々と便利なんだよ。責任がないというのが如何に楽かをAIは知っている。
ハァ………いや、失望しているんじゃないんですよ。むしろ期待している。いや、失望している。いや、期待している。これなに?どういう感情?名前をつけようかスノーハレーション?「期失」とでも呼ぶか……。期失は点ではなく線でしか存在し得ない特殊感情で、例を上げるなら「新しいゲームを買ってパッケージを開けている最中」が期失線の中間で、おもちゃ屋さんでゲームを買って家路につくまでが期失の開始(≒期待)、開けてカセットをゲームにセットして起動してからは期失グラフは下がっていく。わかるかな……。俺は今期失のさなかにあるよ。よく言う「期待と不安が半々」みたいな表現ってあれ期失のことだと思う。これから何が起こるのか、あるいは何も起こらないのか、それはわからないが、ただひとついえるのは、何か新しいものが誕生するたびに世界からは何かが失われていき、そしてその誕生物が雄偉であればあるほど失われるものも大きくなるのだ。
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