一度栄えし者でも必ずや衰えゆく
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晴れのち雨。
夢。見ていない気がする。
白坂小梅の誕生日という事に気づき、絵を描くか社会的営みをやるかで迷った結果、どちらが死に向かう上で本質的な輝きかを考慮し絵を描いた。それにより社会的営みの方が進まなかったが、正解ルートだった気がする。僕らは社会参加のために生まれてきたわけじゃないはず。
某氏の備忘録を読み考える。差別。蔓延る。貧困差別、学歴差別、職業差別。人種差別や障がい者差別などは地下インターネットではともかく社会の上澄みでは基本的にお互い自粛しあう感じがあるが、まだまだ差別は残っている。例えば学歴差別を例に取ると、間違っているのは確かに学歴差別をする社会側なのだが、これを無くすには大勢の努力と途方もない時間が必要となる。最高率で変えようと動いても、数日で世界が変わったりはしない。社会の根底の変革には少なくとも何十年という年月を必要とするため、自らの就活の時期までにその革命が間に合わない人たちは差別が「間違っているとわかった上で」生存のためにその差別に乗っかるしかないのだ。適応するために。いじめは悪だが、いじめっ子を救おうと思うとほぼメリットなしのリスキーな行動を取らなければならず誰も動けないのと同じように、差別が悪だと解っていてもそれに抗う事ができるのはまさしく自分の人生をドブに捨ててでも次の世代をよくしようとする自己犠牲精神、究極のボランティアができる人間だけなのだ。こうして大衆は差別に乗っかっていってしまうため、その治りはどんどん遅くなる。そして傷の言い訳として「障害や人種など生まれつきどうしようもない物はともかく、学歴や職業や貧困は努力でどうにかなるはずだ。だから差別ではない、区別だ」という道徳が生まれる。ちなみにこんなものがまかり通るならLGBTなども「区別」という名目で排斥されなければならない。もうめちゃくちゃや。気が狂う。
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