キャロル
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映画「キャロル」を観た。ズートピアの脚本の完璧さを讃えていた人が、PK、マジカル・ガールとこの「キャロル」を同様の脚本の完璧さを持つ映画だと紹介していたから。完全にBecause構文になってしまった。
観終わった直後は、is that it?って感じだった。「完璧な脚本」と聞いていたので、終わりがあんだけぼやかされたものだとええーってなってもうたが、色々とバックボーンを知るとあれはハッピーエンドという事なんですね。確かにスキの少ない映画ではあった。何より映像美と音楽の素晴らしさはケチのつけようもない、が、やはり終わりがよく分かんなかったのは直前でベルベットがキャロルの誘いを「二度」も断っているからだと思う。断る理由は「虚勢」ということなんでしょうけど、あの目つきだと敵を見るような目にしか見えん。まぁ最後は自主的に食事会の場へ行ってるからその時点でベルベットの意志はわかるんだけど、まぁ……まぁ、そうか。キャロルがベルベットを裏切るわけないもんね。そうか。でも一発じゃわかんなかった。思ったんだけど、パラレル・エディッティングを冒頭と最後でつなぐ形でやるなら、車のシーンをもうちょっとうまく利用できなかったろうか。最初の場面では誘いを断ってベルベットがリチャードの車に乗ってパーティへっていう流れに「見せかけた」んだと思うんだけど。わざわざ見せかけたのに実際の場面でも一旦席を離れはするものの結局パーティ行くんかいっていう。
キャロルのことを「ちょっと観ただけでは『何この映画?』で終わっちゃう人も多いと思うんですけど、そうじゃなくてこれは徹底的に計算されたものすごく深い、高度な映画なんです」って評論家が言ってたんだけど、半分Agreedなんですけど半分はそれじゃ~~ダメっていうか、それは一番言ってはいけないことなんじゃないかとも思う。ズートピアは一撃目で「すごい映画だ!」ってなって、さらに何周しても何周しても回れば回るほどすごさがわかってくるっていう仕組みなんですから。つまり、なんていうか、「最大Pleasure値のための必須要件」を隠してはダメなんですよね。うまく言えないけど、「これが分かればこの作品はとてもおもしろいが、ここが理解できなければ面白くない」となるそのターニングポイントは、徹頭徹尾分かりやすいものでなければならないということです。幼稚園児でもわかるくらい。で、「こんなとこまで計算されてたのかぁ!」という楽しみジャムポイントたちは、すぐにはわからない程度に隠されていてもいいですけど、それらは物語の全体像を理解する上での必須要件であってはならず、100点満点のテストを120点にするためくらいのものでなければならない。考察無し80点考察込み100点じゃだめなんです、考察なしで100点で考察込で120点。それが理想。まぁ、とはいえ実話モチーフらしいんでなんとも……事実は小説より奇なりってやつか。
とりあえず同性愛テーマの映画としては今までで一番良かったと思う。ただ「同性愛」である「特別さ」に甘えずに、もっと普遍的な愛そのものを描いてくれた。同性愛にかかわる葛藤はそのままに、同性愛を超えた人間同士の愛憎が如実に描かれていました。そこは本当にうまかった。あらゆる点で妥協のない映画ではあった。
くだんのインタビューの言葉を借りるけど、「男の読者向けのポルノ」としてのレズビアン(百合)と、「女性同士の恋愛を心を描いた」レズビアン作品では、あまりにも違う。俺は後者は本当に芸術の中で一番好きです。ただ、周りの自称百合厨が観ているのは断じて後者ではない。それがもうここ10年くらいずっと腹立たしい。
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