アウトプット無為論
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諸行無常、万物流転という宇宙原則はもはや疑いようのないものではあるが、これは考えれば考えるほど面倒なものである。恒常性がないということは半恒久的な保守作業をしない限りは其の形で留まってくれないということだ。
たとえば肉をそこらにほっぽりだしておくと、今の季節なら半日もすれば腐るだろう。しかし冷蔵庫に入れておけば数日もつ。冷凍庫ならもっと持たせられる。これが「保存のための作業」である。
サーバーメンテナンス、部屋の掃除、髭剃り、あらゆる保全作業が日常に浸透しているが、これらの作業は諸行無常への叛逆、つまり「保存」という目的のためのみにしか行われ得ない。万物がそのままの形でずっととどまってくれるならこのすべての作業は不要になる。そう考えると我々が如何に万物流転に苦しんでいるか分かるだろう。
もうひとつこのルールには厄介なところがある。それは物質を延命はできても永遠に生き長らえさせることは(当座)不可能であるということである。いかに手を尽くしても永遠に腐らない食物はないし、永遠に色褪せない写真はない。物質にかぎらず、根本的な思想や概念さえもほんの数百年もすれば大きく変遷する。すなわち保全作業とは端から負け戦なのだ。
ここから私は徐々に「アウトプット無為論」とも呼ぶべき合理の皮を着た悪魔に蝕まれ始める。いずれすべてが滅びるのなら、新しいものを生む意味があるのか?というものである。
この懸念それ自体は容易に反駁できる。「たとえいつか滅びるとしても、『それまで』の過程が無意味になるわけではない。何かを世に産めば、誰かの『過程』に輝きをもたせることができるじゃないか」という具合の論調をこしらえればいいだけだ。
しかし、私はこれに対する強烈なカウンターカードを持ってしまっている。死や滅びという結果より、そこに至るまでの過程を重視するという価値観に立脚すると、人生の最適解が「ドラッグ」に至ることを避けられないのである。
物質や経験に輝きはない。輝きをもたせるのは我々の解釈、すなわち脳である。これは単にフィロソフィカルなアイデアではなく、心理学的にはおおよそ支持されている考え方である。幸福度の感じ方には
- 『ボトムアップ説』(出来事そのものが幸福度を決める)
- 『トップダウン説』 (出来事そのものではなく、個人の性格や考え方が幸福感を決める)
のふたつがあり、2023年現在では科学的に紐解いていくとトップダウン説が優勢となり、こちらが定説になっている。
とどのつまり脳に快楽を与えれば、それが真実の幸福になるということである。強力なドラッグでほかのすべてが霞むほどのまばゆい輝きに呑まれて、そのまま消えてしまうのが最も良好ということになる。これは間違いなく早期の死・滅びをもたらすが、過程至上主義論では破滅の仕方は問われず過程でいくつの星(輝き)を集めたかが重視されるため、問題にならない。(この『星』とは脳が感じる快楽のことであり、ボトムアップ説でいうところの『出来事そのもの』のことではない)
いずれにせよ、アウトプットの意義を世界や他者に対し「一時的な効用」を与えることと定義するなら、ヒトが遺伝子の乗り物である以上はこの世で最も偉いのはドラッグの売人ということにならざるを得ない。
ただし反駁の術がないわけではない。ドラッグは星の総量でいえば一生分を凌駕するかもしれないが、たとえば今すべての人類が一斉に大量のドラッグを摂取した場合、一時的に世界の幸福総量が歴史上最高になり、その後すぐ全員が死にゼロになるだろう。これは人類が今後も続いていった世界線と比較すると、どこかのタイミングで総量を上回られる可能性が高い。1日で100ポイント生成して終わりの奴を上回るには、1日で1ポイント生成できる奴が101日続けるだけでいい。
この場合は「保全期間至上主義論」に移行することができる。「より大きい輪で、より長く生きながらえることが正義」ということだ。より大きい輪というのは、つまり個体の死より種族の存続が優先されるという生命の基本理念に従うものである。
しかし保全期間至上主義は、保全期間そのものに如何なる意味があるのかという根本的問題に直観的な返答をすることができない。「幸福」などは個人の感覚として知覚できるので直観的に解しやすいが、過程を問わずただ永く在ることに共通的な意味をもたせるのは難しい。
この問題を解決するのは意外と容易い。「保全期間」と「効用の総量」の両方を考えたハイブリッドを作ればよいのだ。つまり、『効用の総量がより多くなることが正義』というルールを保ちつつ、その総量を一時地点に限定せず、最後のマイルストーンから数えて辿れる限りの歴史を辿ったほんとうの意味での「総量」を視るものである。これは保全期間の価値そのものに明示的に言及はしないが、おのずとその価値を保証するものとなる。この場合、保全期間は理念ではなく道具になるため、説明を必要とするものではない。
ともあれ、これでヤク漬けでいいじゃん問題はひとまずかわすことができる。しかし最長期効用至上主義もまた問題をはらむ。それは、これが実際的に機能するには未来予知が必須であるということである。
我々が「いつか滅びる」ことは違いないが、いつ滅びるかは定かではない。そのタイミングを自発的に定めない場合、我々は『効果があるのかよくわからない保全』にリソースを割かれることになる。実のところ、少なくない数の保全行為がこれにあたる。食品を冷やす・ひげを剃るなどは可視的に効果がわかるが、「健康に良いものを食べる」「外交を行う」「人間ドックに行く」などは保全を100%保証するものではない。場合によっては期限を縮める可能性もある。同様に「人類という種を永く続かせる」という事業も、霧中でさいころを振り続けるのと大差ない保全である。ヤク漬けの幸福総量を上回れるところまで続かないのであれば、この理論は結局破綻する。
このようになると、どうもアウトプットに意味をもたせることは難しい。誰かや自分に効用を与えることを唯一の意義とするならドラッグを上回れない。最長期効用を考えてもギャンブルにもつれ込む。結局我々は一つしかない残機を丁半博打に賭けることでしかアウトプットに意味をもたせられない。
すなわち、アウトプット無為論を破壊するには「効用」に則っていては駄目だということです。誰々や何々にこんな良い影響を与えましたよ、は結局万物流転に阻まれる。『効用の寿命』があるのだ。流行り廃りという現象がもっともわかりやすいそれだが、これはもっとミクロなレベルでもマクロなレベルでも絶えず起きている。一世を風靡した光も徐々に届く距離が狭まり、やがて消える。それまでの時間の長短の話にしかならない。一瞬のきらめきに意味がある、というと耳障りはいいが、ヒトが耳障りだけでやっていけるのはジュブナイル期だけである。
かといって、ではニヒルを気取って悪意や破壊をとればいいのかというとそれも無意味だ。万物がいずれ流転し滅びるなら、いま破壊しても時期を早めた以外の効果はない。破滅を遅滞させる(可能性がある)効用主義を否定するなら破壊主義に至っても逃げ道はない。
そろそろ結論に触れよう。アウトプット無為論が何を示唆するのか。
「アウトプット無為」というのは、別にアウトプットが「有害である」と主張するわけではない。単に無意味というだけで、やろうがやるまいが変わらないのだ。リソースは消費するが、やっていけばそれに見合う収穫もあるだろう。収穫は諸行無常で消えるから無意味という論調はリソース管理そのものを否定するので「やる理由」も「やらない理由」も消し去ってしまう。つまりアウトプット無為論は本質的にnullを主張している。この論調でアウトプットが無為と謳うなら、アウトプットのみならず全生命の全活動が無為になってしまうからだ。これは論とも呼べない正しく空虚な空論である。
にもかかわらず、こんな論を唱えたり支持したりするヒトの内面で何が起こっているのか、を診なければならない。もうおわかりでしょう。このアイデア自体が一種の試金石なのだ。「直観的に受け入れられる」者とそうでない者が現れる。そしてそれは実は「アウトプットの無為性を受け入れたい/受け入れたくない」という意志のあらわれである。
とりわけ、過去アウトプットで享楽していた者が、「アウトプットするより◯◯していた方が楽しい」という「何か」を見つけたときにこれが起こる。過去と今の自分で整合がとれないため、シャドーと戦う羽目になるのである。
過去の自分を殺せない気持ちやサンクコストバイアスなどが複雑に絡み合った結果、アウトプットの無為論は産声をあげた。今自分がアウトプットに興味を失ったのは成長したからだ、正しい答えを見つけたからだ、より効率的になったからだという理屈が必要だったのだ。残念ながらそれらを客観的に保証するものはない。あるのはただ、あなたが「変わった」という事実のみである。
変化それ自体はニュートラルなものだが、過去の自身との断絶を生むものでもある。 - 過去の自分への止めどない愛
- 彼/彼女とつながっていたいという欲求
- 彼/彼女が信奉していたものへの興味を失うという変化
の3要素が満たされたとき、この手の論調が生まれる。解決するにはいずれかを否定してやればよい。3を否定するならアウトプットへの興味を「取り戻す」、すなわち復帰という形になる。1や2を否定するなら過去との決別・新たな人生という形になる。
アウトプットの意味など内発的にしか発生し得ない。かつてあったそれが消えたのなら、それは一般に捨てられていくものと考えていいだろう。再点火することもあるかもしれないが、火がないときに無理して煙を立てる必要はない。つまるところ「やりたくないときはやらんでええ」ということです。アウトプットが無為だと感じるときは、本当に無為なのだ。そう感じない機運の時が来たらアウトプットすればいい。
矛盾しているようではあるが、このため私は『過去の自分の言葉』に囚われることを辞めた。あれはコンディションというものを考慮していない。その時の自分に合った思想があるはずなんだから雑に捨てたり拾ったりしていいんです。記述された過去の言葉に縛られるのは夏も冬も同じ服を着通すようなものだ。別に今生の別れじゃないんだから適応していこうや。
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