26-03-19-1019
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楽曲のアイデアなら山ほどあるのに”作成”の過程がダルすぎてすべてを放棄している。
まずこの世にはアイデアとクリエイトがあって(聖書?)、アイデアの方が絶対的に希少で偉大なんだけど、クリエイトがないとアイデアは世に産まれる事ができないんですよ。私はこれにずっと憤っている気がする。pro-AIなのもそこが大きい。
要するに「クリエイト」は「×1」です。アイデアは無限の自然数をとりうる。「創作物」とはこのふたつが結びついた等号記号の先にあるものです。世界で最も偉大なアイデアは、しかしクリエイトがなければ「=」の先へ行けないから無形であり、世界で最もカスなアイデアが有形したもの(1×1=1)に劣る。
ここでの問題は、クリエイトは常に置換可能なものだが、アイデアはそうではないということ。「クリエイター」は機械だっていいんですよ。機械が工場で働いて「クリエイト」しているが、何をクリエイトするかという設計図(≒アイデア)は未だ人の領分でしょう。創作でやるべきことも同じなんすよ!!本当は!!
「原作・作画」ってシステムはうまくやってるよその辺。かの名作『Bad Apple!!』のPVだって実は原作と作画別ですからね。原作(アイデア)の絵は見るに堪えないものだったが、あれがあったからこそクリエイトによりPVが生まれた。決して逆行はしない。
だが当然誰もが己がための作画をaffordできるわけではない。クリエイトの技術自体に芸術性を見出すのも結構といえば結構だが、「クリエイトの技術がなければアイデアが世に産声をあげられない」という非対称性というか不当なdependencyは本当にどうにかした方がいいと思う。大損してるぞ全世界が。×1というのは言い過ぎにしてもクリエイトが創作物の質に寄与出来る範囲は圧倒的に範囲が狭い。
大事なのは表現技法より物語の質だ。よく言われる「『素人の脚本をプロが文章にする』のと、『プロの脚本を素人が文章にする』のはどっちが面白いか」問題は、少なくともリサ・クロンは「絶対に後者である」と結論付けている。
[[小説の書き方について考える:タブー編]]
これが示すことは、腕の立つ小説家(=クリエイト技術HIGH)では素人の脚本(=アイデア技術LOW)を料理しきれず、しかし腕の立つ脚本家(=アイデア技術HIGH)はほぼいかなるクリエイター(=クリエイト技術LOW)を媒体にしても前者を超えられるということです。
クリエイトに価値はない、少なくともアイデアの価値と比較する限りでは。大衆が一次産業を見下してきた歴史と同じです。「技術の置換可能性」がおおよそ技術そのものの価値となる。
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今の時代はクリエイトが明らかに不当に幅を効かせすぎている。アイデアの価値が見下されている。だからコピーばっか作られる。粗製濫造です。アイデアの段階でスクリーニングする術が少なすぎる。(クリエイトを通したものしか有形にならないので)
伝達速度が速い、所謂映えだとかドパガキ向けのコンテンツばかりが上に来るようになっている。その理屈はこうです:
一次審査:審査時間10秒。
二次審査:審査時間1分。
三次審査:審査時間1時間。
……
みたいな感じでクオリティに対する審査段階があって、一次を通らないとそもそも二次以降の深い内容調査をしてもらえないから、兎にも角にも一次を抜けられるコンテンツが相対的に強くなる。よって最初の10秒でドーパミンをひたすら刺激できるコンテンツ(shorts, tiktok, 扇情的なイラスト等)が勝ち抜く。ところがこれらは底が知れていて、二次審査以降は通らない。
こうなると何が起きるか? 審査できる作品数に限りがあるとした場合、すべての作品が二次審査落ちになるのです。なぜなら二次審査を通過できるような作品は、中盤以降の深みを生むために必然的に序盤に全振りすることができなくなり、よって一次で落ちる。一次を通過出来るほど序盤に全振りした作品は二次を通らない。
今世界が陥っているのはこういう状態なわけです。初めはこんなふうではなかった。なぜこうなったかというと、各審査の持ち時間が時代が進むにつれてどんどん減少しているからです。20年前は一次審査の持ち時間が30分くらいはあった。だから中盤以降に厚みをおいた作品も十分通過できた。今は審査時間が短すぎてドガらせるしかなくなってる。
世界が辿り着いた結論は、「三次審査落ちの作品を1個消費するより、二次審査落ち程度の作品を10個消費した方がドパれる」ということです。その理屈の上では最適化されている。おしまいくん。
この枠組みを壊す唯一の方策は「ネームバリュー」によるバフを利用することで、一旦shorts, tiktok, 扇情的なイラスト等に近いドパガキ向けコンテンツを生成し「信用」を勝ち取ったあとで深みのある作品を作る。こうすると本来通らないはずの作品がネームバリューぶんのバフでスコアが嵩増しされて一次を通過し、さらに作品に深みがあるので二次まで通過することが出来る。『ラーメン発見伝』で芹沢さんが言ってたのとほぼ同じメソッドで、現実にはnatoriというアーティストがこのメソッドを使っていることを明言している。
しかしこれは狂ったシステムに追従するハックであって、本来は狂ったシステムそのものを破壊すべきなのです。システムの永続を幇助してはいけない。
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「生きるべきはアートか人か」の次のステージは、「アートとはアイデアかクリエイトか」にあるのかもしれません。いや、いっそこのふたつは同一の概念かもしれない。だとすれば答えは自明だ。アート=クリエイト、人=アイデア。アイデア>クリエイトを謳うなら人>アート、で一貫してる。
ここまで言っといて何ですが、私の直感的にもArtが意味するところはアイデアよりクリエイトという感じはある。火の鳥鳳凰編の我王の作品とかはアイデアというよりクリエイト寄りの魅力じゃないだろうか。いや、どうかな……茜丸と比較してどうかって話になると我王はアイデア寄りになるのか。しかし少なくとも陶芸品においては「素人の設計図からプロが形作る」方が「プロの設計図から素人が形作る」より絶対に出来栄えが良くなると思う。となると、アートの性質自体が合致しておらず、アートという言葉が不当に包括的なのではないか。
「素人アイデア+プロクリエイト」>「プロアイデア+素人クリエイト」の分野と、「プロアイデア+素人クリエイト」>「素人アイデア+プロクリエイト」の分野があるはずなのです。
| アイデア有利 | クリエイト有利 |
|---|---|
| 小説、漫画、映画 | 陶芸、楽器演奏 |
みたいな感じで。だがこの境界線が曖昧な分野があることも事実。イラストにおいてもアイデア有利なこともあればクリエイト有利なこともある(基本はクリエイト有利だと思うが)。
コンテクストを多く持てる(言語を介する)ものほどアイデア有利になりやすく、五感頼りなものほどクリエイト有利にはなりやすい。そういう意味で、やはりアートの本質はクリエイト寄りにあるかもしれない。
私が最初楽曲のアイデアが……と言ったのは実質的には楽曲に付随するMVのことで、これは明らかにアイデア型だから、クリエイトの技術不足で実現できないのが苦しいという具合でした。
アイデア有利の芸術がAIに置換されることにはあんまり文句言わない(AIのべりすとが素通りしたり)癖に、クリエイト有利な芸術(イラストや音楽)が置換されると文句言うのってもしかしてそういうこと?
よくわからなくなってきたな。でも東方の新作ゲームで背景イラストにAIが使われてても文句が出ずに、キャラをAIで置換したら文句言うあたり、やはり大衆の中でも無意識にクリエイト有利/アイデア有利の判断が行われている気がする。
いいぞ。
結局作り続けられるヤツが一番偉い。鬼虫センセは何やらTwitterでグチグチ言ってた気がするが、グチグチ言いながら作れるなら御の字よ。
少なくとも4年前くらいから体験版はあったらしい。ノベルゲームレベルでも制作期間はそれくらいかさむんだなぁやっぱ。

各AIのAIアートに対する価値観を調査した結果、
Grok>ChatGPT>Gemini>Claude
の順でpro-AIだった。GrokとClaudeは極端さが少し似てるけど、方向性が違う。Grokはとにかくラディカルな意見であれば何でも追従する、ユーザーに与するものであれそうであれ。Claudeはある程度ラディカルかつユーザーに与する意見をほぼ全般的に拒絶する。ユーザーへのfuckyouinparticular度がとにかく強い。
ただ議論に弱いのでちょっと説得するとすぐ手のひらを返す。


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