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ニーチェが嫌いです。基本的に。
ニーチェって発狂して死んでるんですけど、人生の在り方について語りながら人生において失策した人間の言葉って訊く意味があるんだろうか?よしまったくないとまでは言わないにしても、人生の在り方について語りながら人生において成功している人間が既に大勢いるのに、彼らの言葉よりも発狂死した男の自己啓発の方が耳を傾けるに値するなどと誰がどんな価値観から言えるだろうか?
ニーチェは生きづらさに苦しんで死んだが、たとえば同じく生き方の哲学を論じているヒュームはわりあい温厚で、知識人として尊敬を集めただけでなく、その人柄によっても人びとから親しまれた。彼は身近な人たちにいつでも温かい思いやりをもって接していた。誰だってニーチェよりヒュームのように生きたくはないか?富や名声に焦がれるのとは違う。温かみや思いやりの心を学ぶことに惹かれているのだ。人格破綻で人気者という例もある(太宰治など)が、こういう手合に惹かれるのとヒュームに恋するのは別だろう。
梅毒のせいにするのもけっこうだが、近年の研究では、彼の症状が典型的な神経梅毒の症状と一致しない点も多く、疑わしい部分がおおいにある。これもリスクヘッジとして、「哲学的思索の結果狂ったかもしれないやつの言葉」より「狂わなかったやつの言葉」の方が安全だ。だいたい病気ひとつで11年も狂う超人計画なら世話無いね。
人生でいうと(なんだその枕詞)、アーサー・ブルックスの動画が結構あったからまとめて観てたんだけど、やはり彼が「幸福(happiness)」という言葉を使う時は「less unhappiness」をほぼまったく勘定に置いていないようで、オリ幸(オリジナル幸福)感が強い。一般的な定義でいうならブルックスがいうところの幸福は「アグレッシブ・ハピネス」とでも名付けたいね。つまり、人生においてプラスの要素をどんどん取り入れること。加点法ですね。減点は無視して、とにかく加点をかき集めた状態を幸福としている。
こりゃあ私の哲学とはまったく逆。おれのは消極的幸福、パッシブ・ハピネス。おそらく谷川俊太郎や養老孟司あるいはエピクロスもそうだろう。こちらは減点法です。不幸の要素を減らしまくることでアタラクシアを確保します。
で、脳科学的に言えば人間の幸福はボトムアップではなくトップダウンだということが分かってきているはずなのだけどなぁ。ブルックス定義だと不幸と幸福は同じ器ではなくまったく別の器で扱われるから、言ってもしゃーないんだけど。
しかしそういう意味で言うと、やはり、誰が幸福になどなりたいかね?デンジくんは都会のネズミと田舎のネズミ、どっちがいい?
high-suffering,high-satisfactionを「幸福」と定義することにすごく危険性を感じている。それは最も構造に搾取されやすい存在だから。low-suffering,low-satisfactionは今のところアパシーと定義されるが、わたしにとっての幸福はこっちですし、丸喜先生もそう言うでしょうし、そうあるべきだと思いますね。
…辛かったら、逃げてください。
目の前にある理不尽な現実が全てだと思わないで欲しい。
えーっと、要するに悩みがあっても
思いつめ過ぎない方がいいってことです。
せっかく生まれてきたんだ。
どうせなら毎日幸せに過ごす方がいい。
そんな皆の幸せを僕はこれからも応援してます。
ええ言葉やこれは。
この哲学がいつ頃から私に根付き始めたのかは結構謎ではある。2017年とかはhigh-suffering, high-satisfaction側だった気もするのだけど。いつしか「苦痛の美化」をとにかく警戒するようになった。だってそれはよくないことだから。🥺
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