240708
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伊達「世界に悲しいことって色々あるけど、好きだった・憧れていた人がSNSで政治批判や极度的フェミニズム言論を連投するモンスターと化していた時ほど悲しいことはないね」
富澤「間違いないね」
NTRよりひでぇや。なぜ誰も本当の気持ちを吐き出せないんでしょう。P5Sをプレイして痛感した。イチノセだってもっと早く本当の気持ちを吐き出せていたらあそこまで拗れることはなかった。
拒絶されることが怖くて、自分の世界に閉じこもった。
オマエは寂しかっただけだ!
でも、それの何が悪い……?
ソフィア
ここマジで進撃の巨人クラスの名シーンだと思う。
色々と御託を並べて、崇高な計画や思想を掲げて、ニヒルを気取ってみても、誰も彼も本当はただ寂しいだけだ。それを必死に隠そうとしている。そんな救われない人々に対してソフィアが出した答えが「でも、それの何が悪い……?」であるということが、もう、およよ。
そうだよな。何も悪くないよな。寂しいって感じることの何が悪い?悪くないよ。お前たちは頑張っていただけじゃないか。自分なりに自分を守ろうとしただけじゃないか。それの何が悪い?
寂しいならそう言えばいい。何も恥ずかしいことじゃない。何も悪いことじゃない。
誰も足りない者はないし みんな揃つているのに
誰もが自分の背中を寒がる誰か僕の背中をよく知つている人はいませんか
なんだ僕の背中はそんなだつたのかと
僕に解らせてくれる人はいないのか
みんな自分の手は信じているのに
お互いの背中なら触つてやれるのに
せめて背中と背中をあわせて
暖まることくらい出来るのに
背中 谷川俊太郎
もっと早く、誰もがこの真理に気づくことができていたなら……世界はちょっとだけ平和になったのかもね。
本当はただ寂しいだけのことを
強がりの歌 歌って誤魔化した
スーサイドブルー
ルックバック冷笑界隈が跋扈していて私は本当に悲しいよ。藤本タツキのことはどちらかというと嫌い寄りだが、これは流石にあんまりだ。流石の私も……やりませんねぇ……酷すぎます……。
そもそも原作の段階で炎上したこと自体私は不可解だったし憤っていた気がする。原作って何年前だっけ?2年くらい?公開当日に読んでたいへん感動した記憶がある。炎上の類としては藤井風が過去のNワードで燃えたのと同じジャンルといっていいでしょう。くだらない。
魂込めて百何ページも、きっと何ヶ月もひとりで篭って描いてさ。ルックバックって彼が本当に伝えたかったことだと思うんです。チェンソーマン2期みたいな作品自体がコンテクストへの嘲笑と冷笑じみた構造になってるものじゃなくて、ルックバックは杜撰なりにも誠実だった。さよなら絵里はあんまり好きじゃないんだけど(単純に面白くないため)、ルックバックが燃える世界は、なんかもう、ただただ哀しいです。怒りさえ湧かない。底のない失望です。
まぁ燃えるちゅうても大多数的にはおそらくoverwhelmingly positiveだと思うので、いいっちゃいいんですけどね。SNSなんて基本的にノイジーマイノリティの集いだし。
それを思うと今のタツキがあの体たらくなのも無理はない気がする。もし私がルックバックを描いて、嘲笑に附されて終わったら、私だって全部のやる気がなくなっちゃうわ。アニメも思うように跳ねなかったしよ。大きな期待を背負わされて勝手に失望されて、フツーに聞いてくれと叫んでも聞き入れられず、SNSでも妹という仮面を被っているせいで本当の気持は吐けず、呼んでもないのに勝手に「タツキフォロワー」なんて人種がポンポン出てくる。嗚呼藤本タツキの人生のなんと息苦しいことか。心底同情しますわ。新都社でクソ漫画描いてた頃のほうが楽しかったのかもね。頑張れよハンジ……
私が芸術を通して一番伝えたい(かった)ことは、「人は誰もが寂しい」「寂しい・愛されたいという感情は恥ずかしいことじゃない」という二点です。言葉を辿ればずっとそういう主張をしてきたはず。
ダンスパーティーばっかで生きてる奴らでもどこか寂しいらしい
アイスコーヒー全部ぶちまけた夜を分かち合えないように
なまくら
このあたりを上手くやれている(た)のが星野源、藤井風。
孤独なんてただのゲーム 楽しめばいいの
みんなひとりでしょ みんなひとつでしょ
ロンリーラプソディ
君のいない 朝靄の悔い
声も喉が渇いて 届かない
誰も実はずっと寂しいだろ
Drinking Dance
永劫の「寂しさ」とは、全人類に唯一共通する感情なんです。人々が互いを思いやり、共感しあうためにこれを利用しない手はない。どんなに大勢の人に囲まれているように見えても、慕われているように見えても、必ずそいつだって寂しい。絶えず寂しい。どれだけ「自分は寂しくない」と主張しているやつも本当は底なしの寂しさを抱いている。まずそれを信じることからすべてははじまる。寂しさだけは自己暗示では消せない。本当の原罪とはこの絶え間ない寂しさなのです。
寂しさというのは、孤独感や孤立感とは違う。この心、このエゴが絶対に誰のものとも触れ合えないというconviction、また過去未来に存在したすべての人と二度と出逢えないという絶対的断絶。あらゆる意味で常在する世界からの隔絶が私達を包んでいる。しかし同時にこれは「認知」の問題でもあり、心を育むことで低減することは出来る。それがいわゆる「悟り(enlightenment)」であり、寂しさを我が物とすることである。
つまり……どうしようもなく醜く見える自分の性質も、寂しいとか愛されたいみたいな表に出すのがはばかられる気持ちも、全部ひっくるめて愛してしまうほかないという、r/thanksimcured並にprimitiveな結論なんですが、でも実際そうする”ほかない”んですよ。誰も無欠の超人にはなれない。欠点も何もかもを愛する・それさえも愛おしさに転換するという神のごとき超能力を世界に対して行使できるのは、あなただけなんです。自分の認知世界に対してだけはそれが許されている。そういう意味では他の誰にもあなたを救えない。最終的にあなたの認知であなたを救うほかない。こういうのを専門用語で阿Q精神と言います。(最悪)
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